数理神学という知の欺瞞――落合仁司『数理神学を学ぶ人のために』★

 ようやく再投稿できるようになったので、文章を改正してアップ成功。

 無限集合論は神学に適用できるという発想の下、落合仁司は数々の同工異曲の本を上梓しているが、これはその最新版。

 これまで落合仁司は、正教会神学やパラミズムを持ち上げていたが、この書ではその称揚は影を潜め、「パラミズムはキリスト教の教義として許容しうるか否か。聖書の解釈からは、かなり難しそうである」(p.36)とにべもなくその価値を否定している。
 パラミズムに代わって落合仁司の寵愛を受けるのは「十字架の神学」であるが、その内実はたとえばこういう感じである。

「事柄の本質は、十字架に付けられ苦しみ死ぬのは、人間イエスであると共に神ご自身であるという事態である。(・・・)古代のキリスト教徒たちは、この神を、神ご自身ではあるがその分身である、神の子、子なる神、キリストと考えた。さらに、十字架に付けられて苦しみ死ぬ以前の人間イエスもまた、神の子、子なる神、キリストと共にある、一つの人格と考えた。人間であると共に神であるイエス・キリストの誕生である」(p.60)

 なんとキリスト(神)とイエス(人間)が別の人格(存在)であるかのように扱われている。これはむしろ、エフェソス公会議で「異端」として排斥され、カルケドン公会議で追認された、いわゆるネストリウス主義に近い。ちなみに落合仁司は「神」と「人間」の共在と言っているが、正確には「神性」と「人性」。この両性が一つの位格において、混合もなく変化もなく分割もなく分離もなく結合している(Hypostatic Union)、ということがカルケドンで定式化されたキリスト二性一位格の意味である。

 落合仁司は、「カルケドンにおける定式化から大きく外れるキリスト論は、今日なお異端であると言わざるをえない」(p.61)と豪語しているにもかかわらず、カルケドンの定式をまったく理解していないのである。そのせいか、以下のような冗談のような主張にすら至っている。

「このイエス・キリストにおいて啓示された神は、十字架に付けられ苦しみ死ぬ。イエス・キリストにおいて啓示された神は、復活までの少なくとも3日間、存在しないのである」(p.63)

「この私たち人間一人一人と共にある神を、この呼び方は必ずしも正統的ではないが(!!)、聖霊なる神と呼ぶことにすれば、聖霊なる神は、私たち一人一人と共に死ぬ。イエス・キリストならぬ私たち人間は、この世界の終末まで復活することはないのであるから、聖霊なる神もまたこの世界の終末まで存在しないことになる」(p.63)

 こうした落合仁司の「論理」に従えば、聖霊も多数あり、結果位格も三つより多数あることになってしまう。実際、別の箇所で落合仁司は「聖霊は一ではない。聖霊なる神はこの世界に生きた、生きている、生きるだろうすべての人間と同じだけ存在する」(p.126)と断言している。しかし、これはousiaとenergeiaの混同である。あれほどパラミズムを持ち上げていた落合仁司が、本質と活動の区別もできないとは!
 加えて、落合仁司はカントルの定理に触れている箇所で、神の唯一性すら否定している。

「無限集合である神は自らの部分の全体によって超越される。神は唯一ではなく、自己の部分の全体という神によって超越されるのである」(p.129)

 まとめると、落合仁司の「数理神学」において神は、「三位」でもなければ「一体」でもない。いったいそんな(キリスト教)神学がありうるだろうか?
 結局落合仁司は、もはやキリスト教発生以来受け継がれた神学に拠らず、数理神学なる神学を私的に自由きままに創造しているだけである。そうした神学を「学ぶ」ことが、いかなる益になるかは、上記の混乱ぶりを一瞥するだけで十分推測できよう。
 ちなみに以下のような文章を読むと、私はソーカル&ブリクモン『ファッショナブル・ナンセンス』で取り上げられた、よく分からぬまま集合論や位相論に夢中になって、心理学や文学批評に一生懸命適用しようとしたラカンクリステヴァを想起する。

「この極限順序数ωあるいは位相空間ωは神の表現であった。(・・・)ωの存在が順序数を完備化し位相空間をコンパクト化するのであれば、ほかならぬ神の存在が順序数を完備化し、位相空間をコンパクト化すると考えることができよう。神が自然の秩序(order)すなわち順序(order)を完備化し、宇宙の場所(topology)すなわち位相(topology)をコンパクト化するのである」(p.141)

 数理神学は知の欺瞞である。

 近日中に「落合仁司の数理神学の間違い」というタイトルで論考を連載する予定。いま、資料収集中。こういうキリスト教や神学についてスカタンなことを言う人がいると、不思議と燃えてくる(笑)。落合仁司さまさまである。