数理神学は形而上学的神学に勝利したか

 落合仁司は『数理神学を学ぶ人のために』で数理神学と形而上学的神学を対比してこう言う。

 形而上学的神学は神の愛を否定した。形而上学的神学を代表する一人であるカンタベリーのアンセルムスはこう言う。「苦難に対する共苦の感情にまったく動かされないということにおいて、神は哀れみ深くない」。形而上学的神学を代表するもう一人であるアクィナスのトマスはさらに言う。「他人の苦難を深く悲しむということは神に属さない」。神は人間を愛してはいないのか。
 数理神学は神の愛を肯定する。(・・・)キリスト教の中心教理、神の共苦による人間の救済にとって、形而上学的神学と数理神学のどちらが有用であるか、結論は明白であると思われる。これが本書の言う神学理論の検証の最も良い例にほかならない。


同上、p.111

 トマス・アクィナスが神の愛を否定しただって!?
 落合仁司は、事をあまりに単純化しすぎている。まず、落合仁司のネタ元であるA・E・マクグラスキリスト教神学入門』から引いてみよう。

トマス・アクィナスはこの行き方(引用者註・アンセルムスの見方)を推し進めた。特に罪人に対する神の愛を考察するときが、そうである。愛ということは弱さを意味し、潜在的には神が我々の悲しみや窮状によって動かされるであろうことを意味する。トマス・アクィナスは、これを不可能性と見做す。「憐れみは、それが苦しみの感情としてではなく、結果として考えられるのであれば、特に神に帰せられるべきである。・・・他者の窮状を悲しむということは神に属していない」。(引用者註・引用先を明示していない(巻末でも欠落)が、神学大全第1部第21問第4項「憐れみは神に属しうるか」から)


A・E・マクグラスキリスト教神学入門』、教文社、2002年、p377

 見て分かる通り、落合仁司はトマス・アクィナスの言葉を引用する際、前半部分をカットした。そうすると、あたかもアクィナスが神の「憐れみ」を単純に否定したかのように見える。しかも落合仁司は、さらに進んで形而上学的神学(その代表がアクィナス)は「神の愛を否定した」とまで言う。これは落合仁司のネタ元のマクグラスですら言っていない。
 言うのも馬鹿馬鹿しいが、アクィナスは神の愛を肯定している。ここで引用された神学大全第21問の一つ前の第20問のタイトルは「神の愛について」であり、その第1項は「神に愛はあるか」であり、アクィナスの答えは「イエス」。
 ここで面白いのは、異論1で次のように反論を構成していることだ。

「神に愛はないように思われる。神には感情(passion)がないゆえ。愛は感情である。したがって神に愛はない」(神学大全第1部第20問第1項)

これに対してアクィナスは、

「身体的変化を伴う限りで、感覚的欲求行為は感情と呼ばれる。意志行為はそう呼ばれない。(感覚的欲求行為としては)愛は感情であるが、知的欲求行為(意志)を意味するならば、感情ではない。後者の意味において、神に愛はあるのである(・・・)神は感情なしに愛す」(同上)
と答えている。

 アクィナスが「憐れみ」においても同様の思考経路をたどっているのは、マクグラスの引用からだけでも予想できよう。引用文で断ち切られた部分の後でどう言っているのかを見ておくのも有益かも知れない。

「しかし、憐れみは最もふさわしい形で神に属している。まさにその窮状を取り除くので。この名で呼ぶものがどんな傷であろうと。この傷を取り除くことができるのは、何らかの善の完全性だけである。善の第一の源泉は神である。(・・・)神によって与えられる完全性が傷を取り除く限りで、それは憐れみに属す」(神学大全第1部第21問第3項)


 トマス・アクィナスが、いかに言葉に対して敏感に思考しているか、これだけの引用でも感じ取れることと思う。こう見てくると上掲のマクグラスの解説も、不正確であり不十分であることが分かる。「入門書」だけにたよっていると、こうした歪みが見えてこない。
 もちろん、現代神学において、このアクィナスの「神の愛」「神の憐れみ」の定義自体が問題とされているのだ、ということは確かであろう(マクグラスキリスト教神学入門』p380参照。ただしこの問題に決着がついたわけではない)。しかし落合仁司は、そうした繊細な議論を行うことなく、自ら思考を行うことなく、マクグラスの本からパクって影響を受けて、単純に形而上学的神学(トマス・アクィナスの神学)を否定しているのである。落合仁司の形而上学的神学への批判は、数理神学の空疎さを糊塗する為の燻製にしんに過ぎない。
 ここで明らかにしたように、トリックはバレている。王様は裸だ。



<追記>
 落合仁司が『数理神学を学ぶ人のために』p.45で「十字架の神学」は「キリスト教の正統教義として認知」されたと書いている所は、マクグラスキリスト教神学入門』p.378「二十世紀の後半に、苦しむ神について語ることは「新しい正統信仰」となった」とあるのを、落合仁司流に無造作に単純化したもの(マクグラスにおいては括弧でくくられていることに注意!)。また、落合は同ページで「十字架の神学」の代表としてディートリヒ・ボンヘッファー、北森嘉蔵、ユルゲン・モルトマンを挙げているが、これも『キリスト教神学入門』pp.380-381およびp.390で「神の苦しみ」「神の自己限定」を論じる場面で名前が出てくる。
 また、『数理神学〜』同上ページでボンヘッファー『獄中書簡』から文章が引用されている。
ボンヘッファーから引用しておこう。「神はご自身をこの世から十字架へと追いやり給う。神はこの世において無力で弱い。そして神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、私たちと共におり、また私たちを助け給う。キリストは私たちを、ご自身の全能の力によってではなく、ご自身の弱さと苦難によって助け給うということを、「マタイ」8章17節「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」ははっきりと述べている。〔・・・〕聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。苦しみ給う神のみが助けを与えることができるのである」(1944年7月16日付)」(『数理神学を学ぶ人のために』、p45) 
 省略箇所も含めてまったく同じ文章が『キリスト教神学入門』p.390に出てくる(ただし、落合仁司は原書から引いているからか、訳語は違う)。
 ついでに言うと、この『獄中書簡』からの引用箇所は、ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』p.75にも登場する。ただし、モルトマンは続けて、以下の文章を同時に引用している。
「・・・このことは、宗教的人間が神に期待する一切のことの転倒である。人間は、神なき世界における神の苦難を共に苦難するよう呼びかけられているのである」
 落合仁司の数理神学には、こうした「十字架の神学」の苛烈な実践的・投企的側面が欠落していることは申すまでもない。