落合仁司の数理神学を使って奇妙な定理を証明してみる

 落合仁司は言う。

 数理神学の言語である数学言語は、近代自然神学すなわち近代自然科学の言語でもあるので、それに完敗した伝統的自然神学したがって伝統的組織神学の言語である哲学言語に比べ、遥かに広大な普遍性ときわめて強靭な反証可能性あるいは論証力を有している。数学言語ほど組織神学にふさわしい言語は見当たらないのである。


『数理神学を学ぶ人のために』、p71

 それではと、私も以下、その「強靭な論証力」を使って定理を証明してみる(同上pp.124-128を参照せよ)。


定理1:イエス一人だけが人間である、もしくはイエスは人間ではない
証明1:神は無限集合である。数理神学では集合同士が「等濃」であることは、神学上の同一本質(homoousios)を意味する。たとえば、父なる神と御子は同一本質(homoousios)である。
 さて、数理神学では、人間は「自然数」で表現することができる。たとえば人間イエス自然数1で、人間一人一人は自然数nで表現される。
 ここで自然数を集合に置き換える。
 1={0}
 同様に、
 n={0、1...n-1}
1は人間イエスを、nは人間一人一人を表現するのであった。上の式から明らかなように、1は1以外の任意の自然数nと等濃ではない。
 ところで、数理神学で「等濃」は神学上の同一本質(homoousios)を意味するのだった。
 Q.E.D.


定理2:キリストは聖霊である
証明2:聖霊は、ある人間を自然数nとした場合、ωにおけるnの補集合としての無限集合ω-n={n,n+1,・・・}で表現される。
 自然数nに1を代入すると、そこに臨在する聖霊をωにおける1の補集合としての無限集合ω-1で表現できる。
 ところで、ω-1とはキリストを表現するのであった。
 Q.E.D


 まあ、こうした奇妙な定理を待たずとも、「聖霊は一ではない(多数ある)」とか「神は唯一ではない」とか、落合仁司自身が神学的にアブノーマルな定理を「証明」しているのだが。