落合仁司は「十字架の神学」をほんとうに理解しているのか

 落合仁司は『数理神学を学ぶ人のために』で、これまで偏愛しつづけたパラミズムを捨てて「十字架の神学」を数理神学の看板に掲げたが、実際の所、彼は「十字架の神学」をどうとらえているのか。落合仁司自身の言葉を引こう。

神の受難、神の共苦、神の弱さの神学、「十字架の神学」がキリスト教において中心的な場所を占めるようになったのは、ほんの昨日の出来事なのである。
 「十字架の神学」がキリスト教の正統教義として認知される際して大きな役割を果たした人々の記憶も、ほんの昨日のことゆえに生々しい。同時代人が同時代人の成し遂げたことを正当に評価する難しさを承知の上であえて名前を挙げるとすれば、20世紀最大の戦争、おそらく人類史上最大の戦争であった第二次世界大戦の末期に、二つの敗戦国ドイツと日本で同時かつ独立に行き着いた思想の持ち主である、『獄中書簡集』のディートリヒ・ボンヘッファーと『神の痛みの神学』の北森嘉蔵であろう。これらの思想を引き受けてユルゲン・モルトマンが『十字架につけられた神』を著した1970年代あたりで流れは決まった。

同上、p45

 なんとも凄い傾倒ぶりではある。
 「十字架の神学」は、様々な形態をとるだろうが名称から言って、十字架につけられたイエス・キリストを根底に置き、それを全教義の中心に据えるものには違いないだろう。しかし、落合仁司の数理神学は、十字架のキリストを、そうした格別の位置に置いていないのである。
 まず、落合仁司は「救済」について次のように記す。

 したがって、人間イエスの苦しみは、神ご自身の苦しみである、人間イエスの死は神ご自身の死である。神は人間の苦しみを共に苦しみ、人間の死を共に死ぬ。最初のキリスト教徒たちは、ここに、すなわち神の共苦に、人間の救済を見いだした。人間に何らかの救いが、その逃れようもない苦しみや痛みや悲しみからの救いがあるとすれば、それは神が、人間と同じその苦しみや痛みや悲しみを、共に苦しみ、共に痛み、共に悲しむことを措いてほかにはありえない。神の共苦こそが人間の救済なのである。


同上、p59

 ところで数理神学においては、人間イエスと共に在る神、人間イエスに臨在する神は「子なる神キリスト」と呼ばれる(同上、p125)。これに対して、人間一人一人と共に在り、人間一人一人に臨在する神は「聖霊」と呼ばれる。

 私たち人間一人一人にも神は臨在する。(・・・)もし私たち一人一人が救われるとするならば、神は私たち一人一人に臨在しなければならない。私たち人間一人一人に臨在する神を聖霊なる神と呼ぶか否かは大いに議論がある。聖霊なる神が人間一人一人に臨在すると言い切ってしまうと、現代のキリスト教主流から多少離れることになるかもしれない。(・・・)しかし私は、私たち人間一人一人に臨在する神を聖霊なる神と呼ぶことにしたい。


同上、p125

 一読、「キリスト」と呼ばれるイエスと共に在る神と「聖霊」と呼ばれる人間一人一人と共にある神の違いは、呼称をのぞけばまったくない、ということが分かる。また別の箇所では、「特別な人間イエスあるいは私たち一般の人間一人一人と神は共に在り、共に苦しみ、共に死ぬ。それが人間の救われることの本質である」(p.63)と述べており、イエスと他の人間は完全に並列されている。つまり、子なる神(キリスト)と人間イエスの関係と、聖霊とイエス以外の人間の関係は、まったく同型なのだ。
 そうであるならば、次のように結論せざるをえない。すなわち、人間の救済にイエス・キリストは必要ないと。なぜなら、一般の人間が救済されるためには、人間に臨在し、共苦する神が必要であるが、その神は、落合仁司の数理神学に基づくと、御子ではなく、聖霊だからである。
 人間の救済にイエス・キリストが必要ないならば、十字架のキリストはなおさら必要がない。落合仁司の数理神学は、「十字架の神学」に棹さすどころか、神学から十字架を取り除き、十字架の死と苦しみを、苦しみ一般へと還元してしまう。すなわち、十字架のキリストはせいぜいの所、苦しみの一例に過ぎないことになる。
 しかし、たとえば『十字架につけられた神』においてユルゲン・モルトマンが述べているのは、これとまったく正反対のことなのである。

苦難神秘主義が、十字架につけられた方を単に、自分の苦痛と屈辱との原像としてのみ理解しているのであれば、それは確かに、十字架につけられた方が人間となられ、己れを卑下されたその相貌を記憶の中に保存し、それを、自分自身が己をれを卑下しているという意識において現前化してはいる。しかしこの場合には、苦難神秘主義は、同時に、エスのペルソナの独自性と、彼の苦難と死の特殊性とを無にしている、この場合に、それは、イエスの十字架を「十字架と悲惨」という一般的意味において理解しているにすぎないのであり、不具、病気、疫病、早死といった不可能な運命のもとでの受動的な苦難ないしは、他の人々の根深い罪業のもとでの苦難、社会的苦難、己れを卑下せしめる社会のもとでの苦難等として理解しているに過ぎない。しかし、こうしたもろもろの苦難は、キリストの苦難ではなかった。(・・・)彼の苦難と屈辱は、彼が限りない恵みの国としての御国の近いことを説教し、律法に対して自由にふるまい、「罪人と取税人」と食事を共にされたことに現れているような彼の行動から生じている。(・・・)彼は神の義(Gerechitigkeit)を恵みの義(Recht)として、恵みとは無縁の放逐された人々に宣教することによって、律法の番人に挑戦した。(・・・)イエスは、神の解放的な言葉のゆえに苦難し、自由ならざる人々との彼の解放的な交わりのゆえに死んだ。それ故、彼の苦難と死は「神のキリスト」のメシア的な苦難と死である


ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』、新教出版社、1976年、pp81-82

 ここでモルトマンは、十字架のキリストの苦しみが、人間一般の苦しみの単なるモデルに過ぎないのであれば、それは人間の苦難を解放する力にはなりえない、と述べている。落合仁司は、十字架のキリストの苦しみの特殊性を示すことができないことによって、「十字架の神学」の核心を理解していないことを自ら明かしているのである。