数理神学の正体

 というわけで、『数理神学を学ぶ人のために』文献リストにたよって、ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』を入手し、現在読書中。
 ちょっと気になった箇所。

神の神性(Gottheit)は、十字架の逆説においてのみ露わになるのである。そのとき、イエスの道もまた一層理解できるものとなる。すなわち、敬虔な人ではなく、罪人こそが、そして、義人ではなく、義人ならざる人こそが、かれを認識したのは、イエスが恵みの神の義とみ国とをこれらの人々のもとで啓示されたからである。(・・・)神は十字架における神の啓示によって神なき者を、そしてつねに神なき者のみを義と認めたもうのである(E・ケーゼマン)。人は、自ら神なき者にならねばならず、自己を神化し、神に似る者となろうとすることは、すべて断念しなければならない。そのようにしてこそ、十字架につけられた方において自らを啓示する神を認識することができる。(・・・)反対物における啓示なしには矛盾するものが対応するものとなることはできない。同等性の原則に一面的に従うならば、人は天国のための栄光ノ神学(theologia gloriae)を企てることになるだろう。神をその反対物において認識する弁証法的認識こそが、はじめて、天国を神なき者の地上へともたらし神なき者に天国を開くのである。


ユルゲン・モルトマン『十字架にかけられた神』、新教出版社、1976年、pp49-50

 もちろん、この箇所を読んだから、人間神化を説く正教会神学、パラミズムを落合仁司は放棄したのだ、というつもりはない。しかし、現在落合はパラミズムを、(「十字架の神学」に対立する)「栄光の神学」と見なしているのは確実だろう。
 それにしても、新しい伴侶(「十字架の神学」)が見つかったらといって、こうも簡単にパラミズムをぽい捨てするとは。

カントルの定理:無限集合の部分の全体は自己を超越する

 無限集合である神は自らの部分の全体によって超越される。神は唯一ではなく、自己の部分の全体という神によって超越されるのである。ωは最小の無限基数であった。ωより遥かに巨大な無限基数が存在するのである。この事態に神学はいかなる解釈を与えるのか。既存の神学に解釈の準備はおそらくない。現代の集合論はまさにこのカントルの定理から出発している。神学はいま前人未踏の沃野の前に立たされているのである。


落合仁司『数理神学を学ぶ人のために』世界思想社、2009年、pp.129-130

 「この事態に神学はいかなる解釈を与えるのか。既存の神学に解釈の準備はおそらくない」とは、なんとも白々しい。落合仁司はこの定理が、パラミズムを証明するものだという「解釈」を、自著で述べつづけていたのだ。このように数式や定理について、ある解釈を取り消したり変更したりすることができるということは、結局の所、数理神学は、落合仁司によるまったく恣意的な、数学の「神学的」解釈に過ぎない、ということを意味するのだ。