落合仁司はなぜパラミズムを放棄したのか

 数理神学最新版であり数理神学原論とも呼べる『数理神学を学ぶ人のために』を一読して少々不審に思ったことは、『地中海の無限者』以来、あれほど偏愛していたパラミズムがほとんど影を潜めていることだ。軽く触れてはいるが「パラミズムはキリスト教の教義として許容しうるか否か。聖書の解釈からは、かなり難しそうである」(p.36)とにべもない。
 私はすでに(『数理神学を学ぶ人のために』を読む以前)、2010年2月7日の記事において、このパラミズムへの無限集合論の適用は、重大な問題を引き起こすことを指摘していた。
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20100207
 神の活動を無限集合とし、そのベキ集合を神の本性とする。それによって神の本性が神の活動を「超える」ことを証明した、と言うのだが、神の活動からそのベキ集合を構成できるのであれば、神の本性にも同様の操作ができ、その場合、神の本性をも「超える」ものが存在することが帰結してしまう。
 想像するに、落合仁司はある時点でこのことに気づいたのではないか。
 この問題に逢着した場合、二つの選択肢があるだろう。

1.数理神学は間違いであると認める。
2.神より上位の存在を認める。


 数理神学がメシのタネである落合仁司は、2.を認めるしかなかった。
 その際、落合は同時に、パラミズムへの無限集合論の適用も放棄した。というのも、2.を認めると、上記の「証明」は、パラミズムの証明にはならないからだ(パラマスが神を超えるものを認めるはずがない!)。
 落合仁司自身の言葉を見てみよう。

カントルの定理:無限集合の部分の全体は自己を超越する

 無限集合である神は自らの部分の全体によって超越される。神は唯一ではなく、自己の部分の全体という神によって超越されるのである。ωは最小の無限基数であった。ωより遥かに巨大な無限基数が存在するのである。この事態に神学はいかなる解釈を与えるのか。既存の神学に解釈の準備はおそらくない。現代の集合論はまさにこのカントルの定理から出発している。神学はいま前人未踏の沃野の前に立たされているのである。


落合仁司『数理神学を学ぶ人のために』世界思想社、2009年、pp.129-130

 もちろん、まともな神学なら、前人未踏の沃野の前に立たされもしないし、解釈の準備などする必要もない。無限集合論を神学に適用することで、神学的間違いが導出されるのなら、それは単に、無限集合論を神学に適用できるという前提が間違いであることを意味するにすぎない。