非論理極まりない論理本――北岡俊明『「論理的に話す力」が身につく本』★

kanedaitsuki2008-09-03

アマゾンレビューから。

この本では「論理的に話す力」は身につかない, 2008/9/3

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「論理的に話すための実践的な「方法論」について述べた」(p.3)とあるが、読み進めてみると、著者自身の論理的とは言いがたい記述が散見される。

「日本がバブル以降、停滞している大きな原因に論理的精神の欠如がある。(略)
 経済大国という虚構に舞い上がり、彼我の国の真の実力差を、論理的に判定することを忘れてしまった。かつての戦争の時と同じだ。アメリカの戦力を過小評価した。「希望的観測」という非論理的な精神に陥る日本人の欠陥がまたもや露呈した。」(p.32)

これを読むと戦前の日本も非論理的だったのかと思うが、ほんの数ページも離れていない所で、相反するようなことが書いてある。

「論理的思考とは、危険や危機の中から生まれる。論理的に考えなければ、生命の危険や生存の危機に陥るから、必然的にものごとを理詰めに考える習慣が生まれる。歴史的にみると、幕末から明治以降、昭和の敗戦に至るまで日本人は現代人よりもはるかに論理的であった。戦争や貧困は論理的思考力を育む。」(p.36)

同じ調子で江戸時代の日本人は論理的であった(p.38)、とする一方、「明治維新とは幕藩システムから近代システムへの革新である。江戸二百六十年間をへて、時代に適応できなくなった非論理的なシステムを放棄し、論理的なシステムへと転換したことが、明治以降の日本の成功をもたらした」(p.62)と言う。このように著者は時と場合によって「論理的」の意味をコロコロ変えるため、文章に首尾一貫性がなくなっている。言葉の定義が重要と述べている(pp.134-141)が、当人はそのことに無頓着で、支離滅裂なことを平気で書いているのだ。
また、論理における「前提」(むしろ「根拠」と呼ぶべき)の大切さを説いている(pp.282-286)のに、以下のような「前提」の欠如した主張をしている。

「たとえば羽田空港をなぜ国際空港として使わないのか、これほど想像を絶する愚かな非論理的な判断はない。
 ニューヨークには、ケネディ空港、ニューアーク空港、ラガーディア空港の三つがある。同様にロンドンもパリもワシントンもみんな複数の国際空港をもつ。その理由は単純だ。これが論理的だからだ。他に理由などない。海外の人間からみると、非論理的などといわなくても、ただひとこと「バカじゃないか」と思っているはずだ。」(pp.61-62)

羽田空港を国際空港として使わないのがなぜ「非論理的」なのか、上記の文章ではまったく分からない。その根拠がきちんと述べられていないからだ。ただ、著者の気のおもむくまま、「非論理的」とのレッテルが貼られているだけである。これは「論理的な話し方」では決してない。
この本に何らかの効用があるとすれば、どこがどう「論理的」でないかを考えながら読むための「反面教師」としての役割だろう。たとえば、次の文章は「論理的」だろうか。

「幼児には論理的思考力は乏しい。ましてや動物には論理的思考はない。ゆえに、論理的思考ができない人は、幼児か動物ということだ。」(p.41)

本当の実践的な論理スキルを身につけたいのであれば、小野田博一の諸著作か、野矢茂樹の『論理トレーニング 101題』を薦める。

久々に凄まじい駄本を読んだ。レビューで書いているように、「反面教師」としてもってこいの本である。ちょうどトンデモ物理学の本を、物理学の理解の程度を確かめるために読むように、自分の論理スキルの力を試すつもりで読むといい。ブックオフとかで安売りしていたら、即ゲットだ。
レビューには書かなかったが、非論理的だとする事例がほぼすべて「左翼言説」から取られている。左派の物言いを「紋切型」と言っている著者の批判の仕方がまた右派の「紋切型」だ。
言説の論理性は「結論」とは独立の問題であって、十分な根拠を明示しているかどうか、推論に飛躍はないかどうかによって決まる。「結論」に賛成であると途中のプロセスにまったくおかまいのない人は少なからずいるが、それは論理的態度とは言えない。論理においては結論よりもプロセスの方がはるかに重要だからだ。


「論理的に話す力」が身につく本 (PHP文庫)