ノヴス・オルドを不敬と言うひと

小野田神父の記事について疑問点等を呈示しておこう。
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/333766059d5cebc2595ecec286b18dc6

● Peter Vere は言う、「聖ピオ十世会によってなされる共通した立論は、パウロ6世によって改正された典礼は「本質的に悪である」・・・というものだ。」
■ まず言葉が正確ではない。ルフェーブル大司教や聖ピオ十世会は「本質的に悪 intrinsically evil」という言い方はしなかった。あるべきもの・あって当然然るべきものが無い・欠けているとき、それは「悪いもの」であると言う意味で「悪いミサ」とは言っている。「本質的な悪」とは意味が違う。

ルフェーブル大司教は「intrinsically evil」とは言わなかったのかも知れないが、SSPXの中でそう言っているひとはいるようである("AN OPEN LETTER TO CONFUSED "traditionalists" (John Loughnan)")。

"the New Mass ...is in itself a danger to the faith and is intrinsically evil."
(Fr.James Peek's Holy Cross Seminary Letter to Friends and Benefactors,July 3,1996,p2)

Vereの使用した英語とまったく同一なので、彼はこの表現をSSPXのパンフレットなり雑誌なりで目にしたのであろうと推測できる。

● Peter Vere は言う、「「偶有性」は第二バチカン以前の典礼パウロ6世の改正された典礼とで違いがあるが、本質(essence)は同一のままである」
■  Peter Vere には「本質」ということが何か分かっていない。「黒ミサ」と言われているものがある。これは、天主を冒涜する目的で捧げられる冒涜行為だ。背教した元司祭がそれを執行し、冒涜のために本当に御聖体を聖変化させる。しかし、たとえ「有効な聖変化」が行われていても、「ミサ聖祭」と「黒ミサ」とは本質が違う。

● Peter Vere は言う、「イエス・キリストの体、血、魂と神性は聖餐へと実体変化している。」(原文:the Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ transubstantiated into the Eucharist. )
■ これは神学的に間違っている表現だ。パンとブドウ酒がイエズス・キリストの御体と御血に全実体変化する The bread and the wine transsubstantiate into the real Body and the Blood of Our Lord Jesus Christ. が、the Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ transubstantiated into the Eucharist. という言い方は意味をなさない。

後半に関しては小野田神父の指摘の通りであり、Vereの記述は神学的に厳密とは言えない。しかし、文章を追って理解できるVereの主張は、要するにミサは同一で実体変化が生じており、変ったのは(偶有的部分である)典礼のみであるということだ。ミサの性格・位置づけの変更は(メタレベルに属すことだから)また別の問題である。対面・会食などの要素は初期教会にもあったようである(The Pauline Liturgy: A True Restoration(Shawn McElhinney))。

●  Peter Vere は言う、「司祭が第二バチカン以前に使用された典礼によって挙行しようが、教皇パウロ6世によって改正された典礼書によって挙行しようが、ミサの中心にあるこの神秘は生じる。実際、どちらの典礼書も同じローマミサ様式において使用されている。」
■ 検邪聖省の長官代理オッタヴィアーニ枢機卿は、パウロ六世教皇への報告書の中でこう言っている。
「新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉が有効であり得るとすれば、それは司式司祭の意向のおかげである。この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや[新しいミサ典書の]言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」

オッタビアーニ枢機卿は1970年にはノヴス・オルドを認めていたようだ。無効であるなら、そうしたであろうか?(Ottaviani Repudiates "Intervention"

1970年のローマミサの教義的前提と基礎に関するパウロ6世の説明ののちの、オッタヴィアーニ枢機卿とノヴス・オルド


TCRのノート:ここで私たちは見る。パウロ6世の宣言と説明の後、のちに離教運動と教皇空位論に陥る人々(ルフェーブルとゲラール・デ・ロリエ等)によってはじめられ書かれたいわゆる「オッタヴィアーニの干渉」を、オッタヴィアーニ枢機卿が拒絶して終わったということを。伝統完全主義者らは、それ以来いままでオッタヴィアーニの行動を空しく言い逃れようと試みてきた。(・・・)


「私はノヴス・オルドミサの問題についての教皇による講話を深い喜びとともに読んだ。特に、11月19日26日に公衆の前での講話に含まれる教義的精密を。これ以降、誰であれもはや憤慨することはできない、と私は信じる。残りのことに関しては、そのテクストが引き起こしうるいくつかの合法的な難問について、慎重で賢明な教理教育が企てられねばならない。(・・・)」(オッタヴィアーニ枢機卿
典礼が合法的であり、信仰に適ったものである時、教会の美は、その聖なる礼拝を豊かにしている典礼の多様性に等しく輝きわたっている。まさにその根源の合法性が信仰を守り、誤謬の浸透を防ぐ。信仰の純粋性と統一性はこのような仕方によっても、典礼法規を通して教皇の至高の教導権によって支えられている」(オッタヴィアーニ枢機卿

そもそもオッタヴィアーニ枢機卿が個人として言っていることは不可謬的でもなければ信徒を拘束するものでもない。彼個人がノヴス・オルドの有効性を決定するわけではないからだ。

■ Peter Vere は言う、「私が聖ピオ十世会と結びついていた時、改正ミサが本質的に悪であるという主張を擁護しようとして私はトリエント公会議のミサの犠牲についての第七カノンを引用していた。」
● ここを見ると Peter Vere は聖ピオ十世会の論じるところを繰り返していたのではなく、自ら神学者となって聖ピオ十世会が述べていない論拠に従って、聖ピオ十世会よりも効果的に(?)「新しいミサが本質的に悪である」と主張しようとしていたようだ。
■ Peter Vere は言う、「本質的に悪であるものは本性からして不敬を誘引するものであるが、一方トリエント公会議カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえないと宣言しているからである。しかしちょっと待て。教皇パウロ6世の改正された典礼は教会によって承認された典礼だったのか? もちろんそうだ。それだから、トリエント公会議で教義的に定義された教会の伝統に従って、パウロ6世の改正された典礼は不敬を誘引しえないということを結論するしかできない。必要があれば、なんらそれは本質的悪ではありえない、と付け加えてもいい。」
● 彼の論理は、つまりこうだ。
【昔】
「トリエント公会議は、カトリック教会がミサの挙行のために使用するものとした、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引するというならば、その者は呪われよ、という。」
「新しいミサは、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引する。」
「従って、新しいミサは呪われている(本質的に悪である)。」
【今】
「トリエント公会議は、カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえない、という。」
教皇パウロ6世の改正された典礼は教会によって承認された典礼だった」
「従って、パウロ6世の改正された典礼は不敬を誘引しえない」
「従って、新しいミサは、本質的に悪ではない。」

残念ながら、ここで小野田神父が何を言いたいのか私にはよくわからない(わかる方おられるだろうか)。トリエント公会議のカノンに従ってVereが最も言いたいのは、どのような時代のものであれ「カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえない」という一点であろう。Vereは「新しいミサ」「古いミサ」を区別していないから、小野田神父の論理構成は成り立たない(【昔】の方は特におかしい。そもそも、AならばBが真でも、BならばAは真とは限らない。逆は真ならず、は論理学のイロハである)。
Vereがむしろ言いたいのは、ノヴス・オルドのようにパウロ6世によって(従ってローマカトリック教会によって)承認された典礼について、聖ピオ十世会の支持者のように「本質的に悪」と言う者はトリエント公会議によれば排斥される、ということである。