「護教の盾」は離教に邁進する――思考なき信仰の末路

(「護教の盾」氏の発言は茶色、教会公文書は緑字で引用する)

「護教の盾」(ヨゼフ・ジェンマ)氏はついに自ら思考することを放棄し、特定団体の宣伝を垂れ流すに至った
教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”の違い
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/poppyoil/pages/point1.html
「護教の盾」氏自身は多くを語っていないが、

教皇”その人”=不可謬的ではない=従わなくてもよい
教皇”役職”=(信仰と道徳に関することにおいて)不可謬=従わなければならない

という二分法でものを考えているようだ。

「護教の盾」氏は第一バチカン公会議文書を実際に読んだことがあるのだろうか。

主の計画によって、ローマ教会は通常権について、他のすべての教会の首位を占め、ローマ教皇の司教としての裁治権は直接のものである。この裁治権に対してすべての典礼様式の牧者および信徒は、個人としても集団としても、聖職位階に心から服従しなければならない。この服従信仰と道徳に関することがらだけでなく全世界の教会の規律と統治においても示されなければならない。そのため、ローマ教皇との交わりと同一の信仰の宣言が保たれる時、キリストの教会は一人の最高の牧者のもとに、一つの羊の群となる。これがカトリック教会の教えであり、この教えから離れることは信仰と救いを失うことである


「Pastor aeternus」
DZs3060(1827)

服従が要求されるのは「信仰と道徳に関することがらだけ」ではない。したがって、不可謬的なものだけではない

神法による使徒の首位権によって、ローマ教会は全教会の頭である。したがって、われわれは次のことを教え宣言する。ローマ教皇は信徒の最高裁判官であり、教会の規律と指導に関する全事項について、彼に上告することができると。最高の権威を持つ使徒座による判決は最終的であって、その判決を再審査することも、その判決に不平をとなえることもできないと宣言する。したがって、ローマ教皇の判決を、あたかも公会議教皇以上の権威を持つかのように考えて、公会議に控訴することが許されると言う者は真理の正しい道から離れている。


ibid.
DZs3063(1830)

ローマ教皇(聖座)の下した「破門判決」は(不可謬ではないが)最終的である教皇職能による決定だからである。それを撤回できるのは教皇教皇と一致した聖座だけであろう。

ローマ教皇は、検閲または指導の任務だけを持ち、信仰と道徳に関することだけでなく、全世界の教会の規律と統治に関することがらについて全教会に対して最高の統治権を持たないと言う者;また、教皇は最高の裁治権を全面的にではなく、重要な役割を果たすにすぎないと言う者;また、教皇の裁治権は通常、直接に個々の教会およびその全体、個々の牧者と信者およびその全体に及ぶものでない、と言う者は排斥される


ibid.
DZs3064(1831)

かりに「第二バチカン公会議」が不可謬的なものでないとしても、その諸々の宣言は信徒を拘束する。ノヴス・オルドについても同様である。

これすべて第一(第二ではない)バチカン公会議によって荘厳宣言されたものである。教皇その職能において、全教会に対する首位権を持つ。その中には不可謬的なものと不可謬的でないものがあるが、不可謬ではないからといって不従順であってもいいというわけではない

Schism, Obedience and the Society of St. Pius X(Fidelity)から。

1.SSPXは教区の許可なく世界中に神学校、教会、聖堂、小修道院を立てている(教会法234条、 237条、 1215条, 1223-1228条違反)
2.SSPXは必要な文書なしに司祭を叙階している(教会法1015条、1018-1023条違反)
3.SSPXは権限なく告白を聴いている(教会法966-976条、1108-1123条違反)
4.SSPXは教皇空位論者として知られる人物(ルフェーブルはその運動を離教の精神を持つものと見なしている)に聖体拝領している(教会法844条違反)
5.SSPXはエコンの神学校を閉じ、会を解散せよというパウロ6世の命令を拒絶した
6.SSPXは他の司教のいる教区において堅信を実行している(トリエント公会議第五セッション5章違反)
7.SSPXはヨハネ・パウロ2世を教皇として認めると称する一方、至高の立法者としての権能により彼が公布した1983年の教会法の一部をなお拒絶している。
8.SSPXは1988年に四人の司教を教皇の明確な意向に逆らって聖別し、その後1991年さらに一人の司教を聖別した。会自身認めるとおり、そこには既に有効な司教がいた(教会法1013条違反)。そのうえSSPXは、教皇の意向に逆らった合法的な司教聖別がありうるということを主張するために、教皇ないし公会議からたった一つの文言さえ引用していない。しかし、ルフェーブル大司教が尊敬するピオ12世によれば、教皇の意向に逆らった司教聖別は神法への攻撃なのである。

かくも教会法を破り、教会の規律と統治に対して不従順であることを、第一バチカン公会議あるいは他の過去の公会議教皇の宣言は、はたして正当化しているといえるだろうか(神学者の意見は不可謬でもなければ全信徒に対して拘束的でもない。為念)。

<追記>
ちなみに「護教の盾」氏はしおらしく次のように書いているが、

第二バチカン公会議以降の教会の乱れが、第二バチカン公会議の精神が過去の聖伝との連続性を持っていないからなのか、それともただ運用・適用が悪かっただけなのか-----その問題を一時脇に置いても

私の記憶では「この期に及んで第二バチカンの適用の問題などと言う」のは馬鹿げたことであるという主旨の発言を「護教の盾」氏はしていた。まずいと思ったのか、その文章は現在の日記では削除されている。発言に責任を持たず、訂正や弁明を入れることなくころころ変えるのは、「ルフェーブル」流ということか。

<3月14日追記>

コメント欄満杯のため、3月14日記事に投稿おねがいします。
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20070314/p1