ルフェーブルの離教運動からの脱出記――すべての伝統はローマに通ず(2)

"My Journey out of the Lefebvre Schism All Tradition Leads to Rome"より。

聖ピオ5世と「クオ・プリムム・テムポーレ」


私が今までに出くわした聖ピオ十世会を擁護する者による第一の立論(まさに私をして彼らの離教運動へと導いた論)は、16世紀の聖ピオ5世による勅書「クオ・プリムム・テムポーレ」からの引用である。簡単に言うと、聖ピオ十世会の支持者は、聖ピオ5世はトリエントミサをすべての時代にわたる永久的なものとして公布したのだと主張している。
聖ピオ十世会は主張する――私は当時それが確実なものであると思っていた――すべての司祭がローマミサを使用する権利を持つことは聖ピオ5世によって法制化された、この権利は彼によって取り消され得ないものとなった、と。
ところが、のちに私が発見したように、「クオ・プリムム・テムポーレ」論の問題は、教会法的伝統を考慮に入れていない。まず、この立論はカトリック教会における教理と規律を区別していない。しかし、この区別は決定的なものである。
手短に言うと、教義については、教会が確実性をもってその不可謬性を宣言する。例えば聖母被昇天のドグマを見よ。ピオ12世は1950年に突如としてマリアは天国に昇ったことを新しい真理として宣言したのではなかった。つまるところ、この真理はマリアが被昇天した二千年ほど前から存在していた。教皇はマリアが天国に被昇天したことを確証をもって知るようになったがゆえに、このドグマを宣言した。
この点で、聖母被昇天はもはやカトリック信徒にとって神学的論議の問題ではなくなった。一度宣言されれば、教義はカトリック信徒によって信じられねばならず、異なることを信じることができないものとなる。教会は常にその教義をさらに明確にするかも知れないけれども。
他方で、信仰に関する単なる規律は、法であり、教会から生成する慣習ないし実践であり、教会の有益な秩序を守る手段としてある。教会の規律を定めるために、教会は自問せねばならない。現状に照らして、教会の教理を保護する最も実行性のある方法とは何か、と。
結局のところ、規律は教会の当面の必要性に応じて変化するものである。そのうえ、信仰に関する単なる規律は、全教会を通して同じ仕方で適応される必要はないし、それらは常に撤回される可能性がある。ある信徒の特定集団に対する司牧的必要性は、他の集団に対する必要性とは異なるかも知れないからである。例えばラテン教会のカトリックの聖職に課せられる独身制の規律は、東方カトリック教会においては選択的なものである。
この考察によって、まず私は聖ピオ十世会の主張の弱点を見るようになった。もし「クオ・プリムム・テムポーレ」が確かに教義的宣言として公布されていたならば、すべての司祭と司教は聖ピオ5世によって法制化されたトリエントミサを使用する永久的な権利を有するという聖ピオ十世会の主張は正しい。しかし、まさに「クオ・プリムム・テムポーレ」の中に、例外を許す聖ピオ5世による条項がある。二百年以上古い典礼を使用するミサを挙行しているすべての司祭と信徒は、ここで法制化されるローマミサの使用を義務づけられないという条項である。それゆえ、その公布当初からさえ、「クオ・プリムム・テムポーレ」はすべてのカトリックの司祭に適応されていなかった。
この事実のみからも、「クオ・プリムム・テムポーレ」は本質的に教義的なものというよりは単なる規律であったと言える。というのも、教義の定義はその本性により教会全体を拘束するが、「クオ・プリムム・テムポーレ」はその適応においてカトリック信徒の中に例外を設けているからだ。それゆえ、この文書は教皇パウロ6世のようなのちのローマ教皇によって合法的に変えられたり撤回されたりできるものだと、私は結論せざるをえない。
しかし、これがそのケースではなく、のちのローマ教皇が聖ピオ5世によって法制化されたミサの改変を禁じられていたとしても、この教皇の勅書は単にトリエントミサを挙行する権利を許可したに過ぎないということは否定できない。「クオ・プリムム・テムポーレ」は、ルフェーブル大司教がそうしたような、(彼ら司教自身の権威により、ローマ教皇の表明された意向に反対して)司祭を叙階し司教を聖別する司教の権利にまでは及んでいない。
言い換えれば、ミサの聖なる犠牲を捧げる一定の典礼の使用は、ローマ教皇の許可のない司教聖別という行為と同一ではない。トリエントミサを挙行するであろう司祭を叙階するための源泉として、司教を聖別するにしても。


緊急状態?


聖ピオ十世会によって彼らの離教運動を弁護する時に提起される第二の点(最初私はその立場が確かなものだと思っていた)は現行教会法の1323条4項と1324条1項の5――緊急状態に関する条項――である。これらの条項によれば、緊急状態にある場合、通常は適用される一定の教会法が停止される。そのような状態では、法の侵犯に当てられうる刑罰は軽減されるか、完全に停止される。
例えば、通常司祭は告白を聴く際、教会における資格を持たねばならず、司教の許可が必要である。しかし、もしかりに破門された司祭が道端で自動車事故に出くわし、深刻な怪我の状態にあるカトリック成員を見つけたならば、死の危険が存在する限りにおいて、破門された司祭に対してその怪我の状態にある人の告白を聴く権能を、カトリック教会は自動的に与えるだろう。言い換えれば、怪我の状態にある人に免罪の緊急の必要性がある限り、教会は司祭の罪ゆえに罰することはない。というのも、司祭に罰を強いるよりも、死の危険にある怪我人の罪を教会が許すことの方が、より重要なことだからである。それゆえ、上で言及された条項が言うところの緊急の状態においては、教会は一定の予見できない状態において多くの法に例外を許している。
ルフェーヴル大司教は、ローマの許可なしの司教聖別は緊急状態において実行されたと主張した。しかしながら、聖座はその司教聖別が成される前に大司教のおかれた状況を予見しており、まだなおそのような行為を実行することを許していなかった。聖座の名で出されたガンタン枢機卿からの1988年6月17日付のルフェーブルへの手紙にあるように「教会法1013条により必要とされるローマ教皇の委任を得ることなく司祭を聖別する意向を貴兄が宣言しているがゆえに、この公的な教会法的警告を貴兄に確実に伝える。もし上記の状態において貴兄の意図を実行にうつすならば、貴兄自身と貴兄によって聖別された司教らは、その事実そのものによって(ipso facto)教会法1382条に基づく、聖座によってのみ免罪されうるところの自動破門(excommunication latae sententiae)となる」。
本質的に、ルフェーブルによる教会の現状の分析、すなわち教皇の許諾なしに司教聖別を正当化するに十分な緊急性が存在するという分析に、聖座は同意していない。これはルフェーブル大司教ヨハネ・パウロ2世の間の論争を解決する点で非常に重要である。というのも、教会法の適用を解釈する上で相違がある時、教会法16条は明らかに言っているからだ、「法は、立法者かもしくは、立法者によって解釈の権限をまかされた者によって、権威をもって解釈される」と。
ルフェーブルの場合、彼は前もってこの件での彼の教会法の解釈が立法者であるローマ教皇によって受け入れられていないことを知っていた。それゆえ、ルフェーブルがローマ教皇の法解釈に同意していなかったとしても、にもかかわらず、権威をもって法を解釈することはヨハネ・パウロに託されたままである。このゆえに、ルフェーブルの状況が緊急状態にあるという観念がヨハネ・パウロ2世によって拒絶されたのだから、ルフェーブルによるローマ教皇の許可なしの司教聖別の擁護のために、緊急状態の条項に法的に訴えることはできないことを私は理解するようになった。

上記の聖ピオ十世会の「緊急状態」の主張の反駁はあくまで教会法上のもの、であるとは言える。しかし、そもそも聖ピオ十世会自らが、現行教会法(彼らはその正当性をも疑っている!)を持ち出して弁護しているのだから、彼らに反論する為に教会法上の是非を説くことは当然の行為である。
また、それを離れたとしても、「教皇許可なしの司教聖別」を正当化するに足る論拠があるとは思えない。聖座が明確に悪を成すよう命令したのでないかぎり、法を犯す良心上の義務が発生するとは言えないからだ。


<参考リンク>
*トリエントミサ
Use of Tridentine Mass without Indult(TCR)
The Errors of Extreme "Traditionalists"(TCR)
The Legal Status of the Traditional Latin Mass(SSPX)
The Problem of the Liturgical Reform(SSPX)
*教会法
Archbishop Lefebvre and Canons 1323:4° and 1324 §1:5°(Peter Vere)
A CANONICAL HISTORY OF THE LEFEBVRITE SCHISM(Peter Vere)
The 1988 Consecration Canonical Study part2(SSPX)
Schism and Monsignor Lefebvre(Glover)

(この項つづく)