文献主義?

「護教の盾」(3月3日付日記)さんは私をして「いわば「文献主義」」と言う。何のことやら分からないので文章を追っていくと次のような箇所に出会う。

いわゆる「客観」や、「言葉」や、「論理」や、「合理」や、「議論」や、「文献の精査」などを、ちょっとちょっと、神のように崇めないで下さいよ!
金田さんの場合、これがちょっと過度でありませんか!?(笑)

私が「「客観」や、「言葉」や、「論理」や、「合理」や、「議論」や、「文献の精査」などを」「神のように崇め」ているかどうかは、読者の皆さんのご判断におまかせしよう。

私のしている作業は非常に簡単に説明できる。
たとえばAという命題があったとして、それが「カトリックの信仰」であるか否かを判断するための基準は何であろうか。信仰者個人の好き嫌いでないのは言うまでもない。好き嫌いにまかされていいなら、アリウス主義もネストリウス主義もドケチズムもグノーシズムも「カトリック信仰」でありうるからである。では基準とは何か? しかるべき文献である。聖書であり聖伝であり初期教父の著作(大多数が一致している意見)であり公会議公文書であり各教皇の文書である。他にはない。
もちろん、常に実際に原典原文にまで溯って調べなければならないわけではない。実際、私もそこまでしていない。また、私自身研究者ではないから、他人に対してその人の能力以上のことを要求したことはない。通常はCCCなど、教会が教えの「標準」としている文書を調べるだけで十分ではある。しかし、原理的には、しかるべき文献が「カトリックの信仰」の基準であることは動かしがたい客観的事実である。

命題Aに内容を入れてみるとたとえば次のようになる。

A:「第二バチカン公会議は合法的で有効な公会議である」

聖座はAを肯定しており、聖ピオ十世会はAを否定している(厳密に言えば、後者がここまではっきり述べているかどうか私は確証できないので、これは便宜上の仮定である)。どちらが正しいのかを調べる基準は、やはりしかるべき文献である。他にはない。その真偽は決して信徒個人の好き嫌いに依存するわけではない。(実は命題Aの真偽を調べるには第二バチカン公会議公文書を調べる必要はない!!)

私が「いわば文献主義」なのかどうか私は知らない。私はこう述べるのみである。「文献なしの正統信仰などありえない」と。