ルフェーブルの離教運動からの脱出記――すべての伝統はローマに通ず(3)

"My Journey out of the Lefebvre Schism All Tradition Leads to Rome"より。

新ミサ:本質的に悪?


現在聖ピオ十世会によってなされる共通した立論は、パウロ6世によって改正された典礼は本質的に悪である、少なくともカトリック信仰への直近の危険であるというものだ。これは第二バチカン公会議後の典礼はそれ自身において神法に反するということを意味する。この議題へのアプローチの仕方はルフェーブル主義者によってしばしば異なるが、彼らは判で押したように新ミサは異端、不敬あるいは曖昧さを含むと言う。この問題を解決しようとして、私が個人的に結論を得たのは、キリストはユーモアのセンスがおありだということである。というのも、聖ピオ十世会がその主張を擁護する際に引用するカトリックの伝統からのまさにそのテクストが、その主張を反駁しているからである。
予備的な考察をするのが適切であろう。ミサはキリストが受難の前の夜に秘跡として制定して以来変化しなかった。本質的に、「古い」ミサもなければ「新しい」ミサもない。ただミサがあるだけだ。実際、第二バチカン公会議後に変化したものはミサではなく、典礼である。
これが何を意味するかというと、「偶有性」(古典的な神学用語)は第二バチカン以前の典礼パウロ6世の改正された典礼とで違いがあるが、実質は同一のままであるということ。イエス・キリストの体、血、魂と神性は聖餐へと実体変化している。司祭が第二バチカン以前に使用された典礼によって挙行しようが、教皇パウロ6世によって改正された典礼書によって挙行しようが、ミサの中心にあるこの神秘は生じる。実際、どちらの典礼書も同じローマミサ様式において使用されている。
私が聖ピオ十世会と結びついていた時、改正ミサが本質的に悪であるという主張を擁護しようとして私はトリエント公会議のミサの犠牲についての第七カノンを引用していた。このカノンは言う、「もし誰かがカトリック教会がミサの挙行のために使用するものとした、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引するというならば、その者は呪われよ」。よくよくご覧いただきたい。本質的な悪の定義は「それ自体として悪であるもの」なので、教会によって承認された典礼はそういうものではありえないことがトリエント公会議から言える。というのも、本質的に悪であるものは本性からして不敬を誘引するものであるが、一方トリエント公会議カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえないと宣言しているからである。
しかしちょっと待て。教皇パウロ6世の改正された典礼は教会によって承認された典礼だったのか? もちろんそうだ。それだから、トリエント公会議で教義的に定義された教会の伝統に従って、パウロ6世の改正された典礼は不敬を誘引しえないということを結論するしかできない。必要があれば、なんらそれは本質的悪ではありえない、と付け加えてもいい。それゆえに、私の離教的立場は、私が聖ピオ十世会の離教運動への信奉を維持しようとして見つけたトリエント公会議から言える、まさにカトリックの伝統によってすぐさま否定されたのだった。


違法な司教聖別:離教行為?


聖ピオ十世会のグループ内で共通に見られる立論の一つは、教皇許可なしの司教聖別は不従順の行為であるが、離教行為ではない、というものである。私は聖ピオ十世会にはまる前も後も、この立論について多く考察したわけではないが、離教団体の間でしばしば成されるものなので取り上げるべきだろう。聖ピオ十世会の人々は、一般に彼らはローマ教皇への服従を拒否したとは言わない。むしろ、彼らは幾つかの事柄について従順を拒んでいるのだと言う。
私たちはここで教会法752条の離教の定義「教皇への服従の拒否ないし彼に従属する教会の成員との交わりからの離脱」を繰り返そう。この条項が教皇への服従の拒否について程度に差をつけていないことに注意せよ。他の言葉で言えば、ひとはローマ教皇への服従の拒否がまったきものでないとしても、離教状態になる。むしろ、一定の事柄についての部分的な拒否――教皇委任のない司教聖別は重大な事柄である――であっても教皇への服従の拒否という行為となる。要するに、教皇聖下はルフェーブル大司教教皇の許可なく司教を聖別しないように告げ、ルフェーブル大司教はそれに従うのを拒否した。
私は聖ピオ十世会の教会にいた時、この立論に多くの注意を払わなかった。しかしのちに気づいたが、聖ピオ十世会の主張――彼らはローマ教皇への服従を拒否しておらず、むしろ単に一時的に幾つかの事柄について彼に従うのをやめているという主張――はカトリックの伝統によっては支持されえない。というのも、深刻な問題に関する不従順の行為は、少なくとも一時的なローマ教皇への服従の拒否となる。それゆえ、十分な道徳的確かさをもって私は結論するしかできない。ヨハネ・パウロ2世の宣告に逆らったルフェーブル大司教の司教聖別は、教会法に基づく離教行為であった、と。

教皇への不服従は離教行為である。また、離教行為は単なる教会法上の犯罪というだけでなく、信仰上の問題でもある。なぜなら、ローマ教皇の首位権は、第二バチカン公会議以前からあるカトリックの不可謬の信仰箇条であり、その否定はカトリック信仰の否定になるからだ。聖ピオ十世会は本当に「過去の教皇様の教え」に従っているのだろうか?


<参考リンク>

Schism, Obedience and the Society of St. Pius X(Fidelity)
○次の事実の提示は重要だろう。

1.SSPXは教区の許可なく世界中に神学校、教会、聖堂、小修道院を立てている(教会法234条、 237条、 1215条, 1223-1228条違反)
2.SSPXは必要な文書なしに司祭を叙階している(教会法1015条、1018-1023条違反)
3.SSPXは権限なく告白を聴いている(教会法966-976条、1108-1123条違反)
4.SSPXは教皇空位論者として知られる人物(ルフェーブルはその運動を離教の精神を持つものと見なしている)に聖体拝領している(教会法844条違反)
5.SSPXはエコンの神学校を閉じ、会を解散せよというパウロ6世の命令を拒絶した
6.SSPXは他の司教のいる教区において堅信を実行している(トリエント公会議第五セッション5章違反)
7.SSPXはヨハネ・パウロ2世を教皇として認めると称する一方、至高の立法者としての権能により彼が公布した1983年の教会法の一部をなお拒絶している。
8.SSPXは1988年に四人の司教を教皇の明確な意向に逆らって聖別し、その後1991年さらに一人の司教を聖別した。会自身認めるとおり、そこには既に有効な司教がいた(教会法1013条違反)。そのうえSSPXは、教皇の意向に逆らった合法的な司教聖別がありうるということを主張するために、教皇ないし公会議からたった一つの文言さえ引用していない。しかし、ルフェーブル大司教が尊敬するピオ12世によれば、教皇の意向に逆らった司教聖別は神法への攻撃なのである。

これらすべての違反が「緊急状態ゆえやむをえませんでした」で済むのだろうか?
Is the SSPX in Schism? Four Reasons why the SSPX is in Schism
Disobedience(Lefebvre)
Real and Apparent Disobedience(Lefebvre)

(この項つづく)