ルフェーブルの離教運動からの脱出記――すべての伝統はローマに通ず(5)

"My Journey out of the Lefebvre Schism All Tradition Leads to Rome"より。

伝統主義のローマ VS 近代主義のローマ


ローマという問題が、ついには私の良心に重くなってきた。教会を去る人間にとってそうであるように。カトリックの伝統が一貫してローマへの忠誠に関して教えてきたことを鑑みると、いかにローマ教皇からの私の分離を正当化できるのか? 実際の所、ローマとの私の和解から五年たってさえ、ローマとの交わり、地方司教との交わりの問題は私の神学的・教会法的探求の触媒として多く残りつづけた。
私は聖ピオ十世会とともにいて、私はこの問題への彼らの回答を受け取っていた。聖ピオ十世会は、第二バチカン公会議以後の問題行動は信徒を二つの陣営に分けたと主張した。陣営の一つは、聖ピオ十世会の申し立てによれば近代主義者とリベラルによって汚染された現代のローマに忠実な制度的教会。もう一つの陣営は、聖ピオ十世会が止まっている、伝統のローマに本質的に忠実なそれである。
にもかかわらず、私は自己の良心をだますことはできなかった。それで、現代のローマに忠実であることなしに、カトリック教徒は伝統のローマに忠実であることができるという立論を、カトリックの伝統は実際に支持しているのかどうかについて調べつづけた。
「私たちの心に休息はない、主よ。あなたの内に憩うまでは」、聖アウグスティヌスは『告白』の冒頭で言う。私の心は霊的な休息がなかった。なぜなら、キリストの神秘体である教会との十全なる交わりになかったから。しかし、キリストもまた私たちに約束している。真理を探せば、見つけるだろう、と(マタイ7:7を見よ)。
私の場合、真理は私の両親の書斎の秘密部屋にあった。そこで私は、使われていない箱の中が、父の学生時代から放置された古い教皇の回勅でいっぱいであることを発見した。この箱の底に、教皇ピオ12世の素晴らしい回勅「ミスティチ・コルポリス」があった。
不思議なことに、私はすぐにこの作品を開いて、以下の文章に達した。「考えるに、教会は何か隠れたもの、不可視なものであると気ままに主張する人たちは、大変大きな間違いをしている。彼らは教会を一定の規律慣例と外的儀礼を持つ単なる人間的制度であり、超自然的生を伝える力を欠いていると見なしてもいる」(64)第二バチカン以前の教皇によって表されたカトリックの伝統からのこの神学的発見は、以前のディンティンガーにおける聖アナスタシウスの発見よりも私を驚かせた。
ここでのカトリックの伝統による教えは、単なる人間的制度に対立するものとして単なる霊的共同体へと教会を分離することはできないということだ。簡単に言うと、伝統のローマと今日のローマは同じローマである。カトリック教会論についてのすべてのことが突如私に意味を持った。受肉したキリストが本性のどちらも犠牲にすることなく、完全に人間であり完全に神であったのとちょうど同じように、キリストの神秘体である教会もまた、可視的なものと不可視なものの完全な統一でなかればならない。
パウロの手紙の中の問いを私は思い出した。「キリストは分けられるのか?」(第一コリント1:13を見よ)もちろん、答えはノーだ。それゆえ、カトリックの伝統という名で、なにゆえキリストの神秘体を霊的共同体と人間的共同体に分けるのだろうか?
そのうえ、可視的共同体の外においてミサの聖なる犠牲に与ることで、キリストの神秘体、教会から、聖餐における秘跡的体(体、魂、神性)をなぜ私は分離するのか? というのも、「キリストの体」「交わり(共同体)」は二重の意味を表現しているのではなかったか? 第一に秘跡的なもの、聖餐の秘跡を。第二に教会的なもの、教会の聖なる一性を。
私の良心の中に形成してきたこれらの問いに魅かれ、私は「ミスティチ・コルポリス」を読みつづけ、次の箇所に遭遇した。
「しかし、主が隠れた仕方、あるいは通常ではない仕方でのみ支配すると考える必要はない。反対に、私たちの贖い主はその神秘体を、地上における彼の代理人を通じて、可視的で通常の仕方で統治してもいる。彼は大変賢明であるので、教会という体を、目に見える頭のない人間組織として建てるがままにはできなかった。キリストと彼の代理人は唯一で一つの頭である。これは私の先任者である、故ボニファチウス8世が使徒書簡「ウナム・サンクトゥム」で荘厳に教えたことである。そして、彼の後継者たちも、同一のことを絶え間なく語った(40)」
もちろん、私は思った。ローマ教皇イエス・キリストカトリック教会の唯一の頭を形成すると。聖ピオ十世会の多くの聖堂で聞かされた「伝統」という語は、「手渡す」という意味の、ラテン語tradereから来ている。究極的に、伝統には受け渡しの最初の源がなくてはならない、その源泉はイエス・キリストである、と私は推論した。最後に私が理解したのは、伝統は人物(Person)であるということだった。無原罪の処女の子宮の中に受肉した、聖三位一体の第二の位格である。
キリストと彼の代理人は教会のただ一つの頭を構成する、となれば、伝統の声は、ローマの首位権において、聖ペトロと彼の合法的継承者が語るのでなければならない。それゆえに、私はカトリックの伝統に従い、キリストが自らの神秘体をその上に建てたところの岩を受け入れるという選択をせねばならなかった。
放蕩息子のように、私はルフェーブル大司教に従って離教に走ることの誤りを理解し、聖にして母なる教会への道をたどっていった。「エクレジア・デイ・アドフリクタ」における寛大な教皇の勅許を見るに、ヨハネ・パウロ二世はまさしくキリストの譬えにおける父のようだった。1988年時点で、正統なカトリックの伝統の葡萄畑から出てルフェーブル大司教を支持してきた伝統主義の息子や娘たちを教会へと迎え入れることによって、彼は「父」を意味する「教皇」という称号にふさわしく生きていた。