Immortal God:寝た子を起こす神萌エラー参上――稲垣良典『問題としての神―経験・存在・神』★★★★★

「神は死んだ」と宣告されて久しい。というか百年ほどたっているのだが、著者は神忘却とも言える昨今の世(とくに哲学界)の中心で「神」を叫ぶ。神は死んでねえぞ!そこらじゅう徘徊してるぞ!
近代哲学の成立過程で、理性は自らを「経験」の枠内に閉じ込めてしまった。したがって「経験」されえぬものとしての神を理性の領域から放逐した。これはすぐさま無神論につながるものではないが(実際カントは無神論者ではない)、神への探求をややもすると理性と切り離されたものとして、結局は徒労であるという判断を招くに至った。この逆の立場が、いわゆる「否定神学」「神秘主義」といえるものだが、実はそれらは同じ事柄の裏面でしかない。

否定神学やあるいは神秘主義の立場をとる人たちは、人間の理性、人間の認識能力は非常に不完全で限定されているから神のことを知り尽くすことはできない、ということと、神についてはまったく何も知ることが出来ないという二つのこと、ある意味では非常に似通ったことのように聞こえるのですが、この二つのことを同じだと思い込んでいるのではないか。しかし、実は神は測り尽くし得ない(incomprehesibilis)ということと、神については何事も知り得ない、つまり不可知(non-inteligibilis)であるということとの間にはまさしく天地の違いがある、正反対だといえるわけです。


上掲書、創文社、2002年、p56

理性の能力を人間的認識の枠内にとどめることと信仰の純粋を守ることは実は表裏にあり、理性と信仰の分離が中世から近代にかけて生じたことなのだと著者は指摘する。「存在」もまた「経験」と同様の道をたどり、ひどく狭くとらえられるようになる。もっとも極端な形がバークリーの「存在とは感覚なり」という定義であり、これはほとんど(感覚的なものに限定された)「経験」=「存在」だと言っているのと同じだ。
著者はことを転倒させてしまう。そもそも「経験」といい「存在」といっても、それほど狭いものなのだろうか。さる高名な宗教学者は大上段に、西洋の思考様式は「存在」を何か固定的な、ソリッドなものだとして、それを東洋思想(空?)の見地から批判する。著者に言わせれば、そこで言及されている西洋思想は、あまりに部分的で偏ったものであって、「存在」を活動的なものとしてとらえる観点は、古くはギリシャ哲学からはじまり、アリストテレスを経て中世スコラ哲学にまで受け継がれている、ということになる。実際、「存在」とは自己超越的なものなのであって、それをとらえようとすれば、自然と人間的認識をはみ出さざるを得なくなる。そういうことは、いちいちハイデガーの指摘を待つまでもなく、中世の神学者にとってはある意味で自明のことだったのだ。

私たちは、存在という私たちにとって一番身近な、しかし同時に非常に測り知れない神秘に向かって探求を進めていくわけですが、その探求の道のりに進むに従って人間が、人間であることをどこかで超越することを要求する。「超越」という言葉は余り軽々しく使えないと思いますが、しかしどこかで人間を超えるような認識の様式、ある意味で神の認識様式ともいえるものにいわばふみ込んでというか、それに参与するというか、存在という神秘はそういうところまでいかないと探求を進めていくことができないようなものなのです。


同上、p64

神が最高の「存在」(ありてあるもの)であることと、人間が常に存在を超越としてとらえていることは、かくてつながる。理性の限界、理性の向こう側に神秘がある、というのではない。「世界に神秘があるのではなく、世界があるということが神秘だ」(ウィトゲンシュタイン)。信仰の世界と理性の世界はお互いに浸潤している。トマス・アクィナスによって成し遂げられたとする信仰と理性の総合は、「理性」の上に「信仰」をぽんと置くような、何か屋上屋を重ねるごときものなのではない。

形而上学的な探求というものは、確かに人間が自分の理性で自前にすすめていくことができるものではありますけれども、それがただ人間の自力でもってあるところまでいって、それは人間が自分だけでやることであって、その先はバトンが次の「啓示」とか「信仰」に譲り渡されるとか、そういうことではないのです。最初から形而上学的・理性的に探求をすすめていく、そこですでに信仰とか啓示の光というものは受けいれられているのです。


同上、p80

著者が紹介しているように、前教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅『信仰と理性』において、現代哲学において生じている信仰と理性の分離を厳しく批判している。こんにち哲学が自ら固有の領域に限定し、その外部への探求を絶つ抑制的態度をして、「偽りの謙遜」と呼んでいる。実際、人間的問題の多くは、必ずしも経験的確実性を持たないものがほとんどであって、そうした難問にたいしてほっかむりして逃亡するのは、理性の怠慢と言えよう。博識よろしく様々な意見を並べておいて結論を出さないのは、真理の探究の放棄であり、哲学の自壊なのである。
著者はこうして信仰と理性の友愛に満ちた関係を解き明かしつつ、人間という「問題」の鍵を「神のかたどり」という言葉に託して論を閉じている。すこぶる刺激的な思想書であり、著者が力を込めて言うとおり、「神学はエキサイティングな学でありうる」という思いを深くする一冊であった。


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