終わりについて

私とはおそらく思想的政治的立場が大きく異なると思われる「戒棋夷説」のmaroさんであるが、その文章に感銘を受けることは多い。
「戒棋夷説」11月27分記事より引く。
http://www.orcaland.gr.jp/~maro/diary/diary.html

たとえばコンピュータと人間の比較について、他者と議論する気ならチューリングとサールに一回は言及すべきであろう。しかし、ピノーは自分の好きなフーコーベルグソン、ハイゼンベルグ等々を並べるだけなのだ。彼が援用する科学者や哲学者による無数の思想が本の中で何の矛盾も起こさず、著者の哲学に都合よく調和してゆく。他者の論理を本気で扱わないか、自分に同化させるか。著者の異国生活の長さを考えると不思議である。
 他者という概念を私に仕込んだ一人が柄谷行人で、今年は彼の「近代文学の終り」を読んでいた。こないだ本になったのでまた読んだ。私自身の人生も後始末の時期に入っており、おかげで最近は「終り」に敏感である。「最初からわかりきっていた」と言いたくなるようなビルバオの結果を見、紹介棋譜の一局を何度も並べるうち、とうとう「チェスの終り」という言葉が浮かんできた。おまけにもうカスパロフは居ないし。しばらく考えることになりそうだ。

件のピノー本は未読であるが、だらだらと他者の思想を並べるだけ、というのは雰囲気としてわかる。世の中には、オリジナルの思想を創造しようとする者と、それを系統的に研究する者と、それとは別に思想趣味哲学趣味とでも呼ぶべき者がいるが、ピノーもそうなのだろうか。
「チェスの終り」、コンピューターの発達の進歩はその出現からは考えられぬほどのスピードで進んでいるので、この事実はかなり実感を持って感じられる。もちろん、すべての変化が解かれるのは遠い未来であろうが、人間の側に、チェスというテクストが「汲み尽くされた」という感覚が広範に広がれば、おそらくそれは事実上の「チェスの終り」となる。
私はかつて「俳句の終り」というアイデアから「終末論的俳句論」を書こうかな、と思ったことがある。実は近代俳句の始祖である正岡子規も同様の考えをもって俳句分類を行っていた。子規は当時すでに俳句はほとんど「汲み尽くされた」と考えていたのだ。これは有限の音の組み合わせで成り立つ最短詩形である俳句の運命と呼ぶべきで、今ではコンピューターが自働作句する時代だ。
そして私はいま、あることの「終り」について、静かに沈思せざるをえない。私はもともとカトリックシンパだったので、その「終り」に耐えられない時には、もしかしたら教会の門をくぐるかも知れないな、などとちょっと思った。