『岩波 キリスト教辞典』は使えないというお話

 落合仁司ってネストリオス異端じゃね?って言ったので、ネストリオスについて書こうかと『岩波 キリスト教辞典』を紐解いてみて、ちと疑問がわいた。まずその記事を見てみよう。

聖母マリアの呼称を、キリストの神性を強調するアポリナリオス主義を助長するような「神の母」(テオトコスTheotokos)ではなく、「キリストの母」(クリストコスChristokos)とすべきであると主張して、アレクサンドリアのキュリロスと論争となり、431年のエフェソス公会議で断罪され、上エジプトへ追放され、そこで没した。ネストリオスの説は必ずしもキリストの人性のみを主張したのではなく、神人両性を唱えているが、彼のよったアンティオキア学派の性格と、キュリロスのよるアレクサンドリア学派のそれとの対立、誤解によって、論難された公算が大きい。ネストリオス派の主張は必ずしも彼の思想そのままではない。


【ネストリオス】項 文責・大森正樹

まず、最後の文でネストリオスその人とネストリオス派の思想の差異を明示しているが、通常、思想の創始者と信奉者に違いがあるのは当たり前(たとえば、マルクスマルクス主義を考えてみよ)である。しかも、違いがあると言いながら、次の【ネストリオス派】項において、その思想の差異については何も述べていないのだ!!!(だいいち、この規模の辞書で「ネストリオス」と「ネストリオス派」を項目として分ける必要があるのか?) 何のために挿入した文なのかさっぱり分からない。ネストリオスについての昨今の研究成果に通じていることを筆者が誇示したいだけではないかと疑われても仕方あるまい。
 私が特にひっかかったのは、ネストリオスは「キリストの人性のみを主張したのではなく、神人両性を唱えている」との部分。これは間違いではないとしても、ネストリオス(派)について、本当に必要なインフォメーションを欠いている。
 私は常に、ネストリオス主義を、「イエス・キリストにおける神性と人性を、二つの人格であるかのように唱える異端」と理解してきた。したがって、キリスト論における二性一位格の否定が、その主義の特徴なのである。
 たとえば、Jhon A.Hardon.S.J."Pocket Catholic Dictionary"'Nestorianism'項を見てみよう。

五世紀のキリスト教異端。受肉したキリストにおいて、一つは人的、一つは神的な、二つの異なった人格があると主張した。(・・・)
 ネストリオスは、キリストにおける二つの分離した人格を立て、両者の結合を記述する際には、それらを存在論的ないし位格的に結びつけることができず、道徳的ないし心理学的にのみそうしている。

 それゆえ、ネストリオスが「神人両性を唱えている」としても(あるいはさらにその結合について述べているとしても)、それは一つの人格における位格的結合ではない、という所まで書いていなければ、ネストリオス(派)についての、重要な情報を得られない。そういう意味で、この記事は、不十分であり不正確である。
 これは一つの例であるが、この『岩波 キリスト教辞典』、キリスト教に関する定番辞典となっているが、無駄な情報、無駄な記事が満載である上、不正確な記事も多く目につく。
 同じ執筆者を挙げて恐縮だが、たとえば【フィリオクエ】項

この問題(引用者註・フィリオクエ論争)は東西教会の重要な相違とは言えない。教父たちも聖霊の発出については、どちらにもとれる発言をしているからである。むしろこの問題は東西の心性の相違によるものであって、教義問題というよりはむしろ歴史の過程で生じた問題であろう。


【フィリオクエ】項 文責・大森正樹

 もちろんフィリオクエ論争すなわち聖霊の発出をめぐる教義は「東西教会の重要な相違」である。たとえば、Joseph P. Farrell trans."The Mystagogy of the Holy Spirit"やClark Carlton"The Truth: What Every Roman Catholic Should Know About the Orthodox Church" では、filioqueが東西教会を分かつdogmaticalな問題であるとはっきり述べている。この教義上の差異が解消できなかったがゆえに、東西教会分裂に至ったのである。
 教父たちが「聖霊の発出について、どちらにもとれる発言をしている」という事実は、実際にフィリオクエ問題が「東西教会の大きな相違」になっていることへの反証になっていない。また、「教義問題というよりはむしろ歴史の過程で生じた問題」というのは、かなり没論理的表現である。なぜなら、教義問題は、常に「歴史の過程で生じた問題」であるからだ。歴史の過程で生じなかった教義問題とは、いったい何だろう?
 『岩波 キリスト教辞典』によってキリスト教のコアを知ろうとするのは、魚屋に行って冷蔵庫を買おうとするようなものである。