神学を学びたい人が絶対に読んではいけない本――落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』★

 三位一体(三一性)のような神学の命題は、無限集合論を使って表現できる。表現できるばかりでなく証明できる。こうしたアイデアから、落合仁司は「数理神学」の名の下、同工異曲の本を次々に出版した。これはその中の一冊。
 一見、論理的、学術的に書かれているが、根本的な神学理解が怪しい。たとえば、落合による三一論の「証明」を見てみよう。

「神の本質を無限集合とおいてみよう。(・・・)神の実存は、Aと述語づけられるキリストと、Bと述語づけられる聖霊と、AでなくかつBでないと述語づけられる神ご自身とに区別される。あるのものxをAと述語づける、すなわち「xはAである」と言うことは、取りも直さずxをAという性質を持つ集合の要素とすることに他ならない。したがって神の実存を、Aと、Bと、AでなくかつBでないという三つの述語によって区別することは、神の「〜である」、神の本質という無限集合を、Aと、Bと、AでなくかつBでないという性質を持つ三つの部分集合に分割していることになる。(ちなみにAかつBという述語はありえないので、これは直和分割である)。すなわち神の異なる三つの実存は、神の本質という無限集合の(無限)部分集合であると考えられるのである。」(pp.129-130)

 これだけの文章の中にも、いろいろ突っ込み所は多い(たとえば、キリストや聖霊が、集合の元(要素)として言及されたすぐ後に、その元を含む(部分)集合に転じている!)が、ここでは一点だけ神学的間違いを指摘しておく。
 落合の「証明」は、「無限集合においては全体と部分は(濃度が)等しい」という集合論の定理に拠っている。そのため、全体である神(の本質)を、まずは三つの部分に「分割」しなくては、無限集合論を三一論に適用できない。しかし、そうした操作は不可能なのである。というのは、

 神は分割できない

からである。それゆえ、言うまでもなく、三つの位格は、神の本質を三分割したものではない。
 たとえば、カトリック教会のカテキズムでは次のように説明されている。
「各ペルソナ間の実際の区別は、一体の神を分割することによって生じるものではなく、相互の関係によるものです。」(255)
 この節につづけて、落合仁司のソースの一人であるナジアンズの聖グレゴリオの以下のような文章を傍証として引用している。
「神は唯一ですが、それぞれ区別された三位として存在しておられます。(・・・)おのおのが神の全体であり・・・三位がともに神の全体です」(256)

 落合仁司が依拠しているのは正教会神学であるから、カトリック教会のカテキズムは反証にならない、と考える方も、もしかしたらいるかも知れないので、正教会神学者Clark Carltonによる正教会カテキズム"Faith"(Rejina Orthodox Press,1997)からも引いておく。

「神のそれぞれのペルソナは神性の全体を保有している。神は三つの部分に分割されない。なぜなら、神性は一つにして分割不能だからだ。御子と聖霊は神性を完全に所有するがゆえに、彼らは御父と同じく神である」(p.56)

 実際、神の分割不能性は、キリスト教神学において基本中の基本である。無限集合論による三一論の証明という落合仁司の試みは、そうした神学についての初歩的な間違いによって、議論の余地なく失敗している。
 キリスト教神学について学びたければ、他にいくらでも良書がある。このような擬似学問を学ぶことは、百害あって一利もない。

 正直に白状すれば、落合仁司『地中海の無限者』初読の際は、面白いと思ったものだ。ただし、その時でも「無限集合論」による証明自体は無意味と見なしていたが。
 しかし、落合本を賞賛する方々が少なくないこと、ついに『数理神学を学ぶひとのために』を上梓し、公共の場でこの擬似学問が教授されていることを知って、詳細なレビューを書いてみた次第。
 なにしろ学問的トレーニングを受けた人が書いたものだから、余計にやっかいなのだ。神学の基本を学ばないまま「数理神学」なるものをまじめに「習得」してしまうことは、その人の知性への壊滅的打撃になりかねない。