落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』つづき

 落合仁司による無限集合論の「パラミズム」、すなわち神の本質と活動の差異への適用は、さらにめちゃくちゃだ。

「神の活動を無限集合とおいてみよう。(・・・)
 この神の自己の多様な部分、神の活動の多様な部分を、神の活動という無限集合の部分集合と考えることが出来る。(・・・)このとき神の本質を、神の活動の多様な部分の総和、神の自己の多様な部分の総和と考えることは出来ないか。すなわち神の本質を、神の活動という無限集合の全ての部分集合の集合、ベキ集合と考えるのである。
 こう考えることによって神の本質と活動の関係に対して、集合論の定理2「無限においては、部分の総和が全体を超える。」あるいは「無限集合は、自らのベキ集合に自らを超えられる。」が適用できる。すなわち神の活動が無限集合であり、神の本質がそのベキ集合であるとするならば、定理2により、「神の本質は、自己の活動(自己自身)をも超越する。」という命題が帰結される。言うまでもなくパラミズムである。このことはパラミズムが集合論の定理として証明可能であることを意味する。」(pp.130-131)


 神の活動を無限集合とし、そのベキ集合を構成することが、かりにできたとしよう。この場合、同じ操作が神の本質に対しても可能か、可能でないか、どちらかであるが、どちらであっても落合の「証明」は崩壊する。なぜなら、可能なら、神の本質をも超越するものが存在することを帰結するし、可能でないなら、神の活動に対してもそうした操作が不可能でなければつじつまが合わないからだ。
 ある無限集合とそのベキ集合の関係を「超越性」と規定することができたとしても、それは相対的な超越性に過ぎない。上で述べた通り、ベキ集合のベキ集合・・・という具合に、いくらでも上位の無限集合を構成することができるからだ。それに対して神の無限性は絶対的な超越性であり、その上位が存在しない。
 本質的な、それゆえ最も深刻なことは、そもそも神の無限性は数的無限性なのか、という問いが落合仁司に欠けていることだ。たとえば、トマス・アクィナス神学大全』第1部第7問は神の無限性を扱っているが、その第3項にはこうある。


「その本質において無限であることと、大きさにおいて無限であることとは別である。たとえ何らかの物体――火や空気など――が大きさにおいて無限であるとしても、本質においてはしかし無限ではないであろう。なぜならば、その本質は形相によって何らかの種に限定され、また質料によって何らかの個に限定されているからである。(・・・)
 数学的物体についても同じことがいえる。じっさいわれわれが、数学的物体を現実に存在するものとして想像する場合には、その物体を或る形相のもとに想像しなければならない。何物も形相によらなければ現実的たりえないからである。ところで、量であるかぎりにおける量の形相は「かたち」であるから、それは何らかの「かたち」を持たなければならないであろう。したがってそれは有限であろう。「かたち」は一つの限界、ないしはいくつかの限界によって包まれるものだからである。」


 つまり、無限集合もまた、本質においては「有限」なのである。実際、ベキ集合を次々に構成できるのだから。
 「神は無限だ。ところで数学には無限集合論なるものがある。だから、神学に無限集合論が適用できる!」この落合仁司の発想は、子供の夢想のようなものである。その際、きちんと神学的検討を行っていれば良かったものを、幼稚なアイデアを学術的に粉飾し、世に出してしまったのだ。非常に優秀な知性の持ち主が、取り返しのつかない恥をかいてしまうというのに、なぜ誰もつっこんであげなかったのだろう?