英国聖公会の司祭叙階の無効性

(便宜上、杉本氏の発言は青字教会の公式文書は緑字で引用する)


杉本氏は当ブログコメント欄で以下のように書いている。
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20070203/p2

バチカンも具体的に何が「不可謬」といえるかについては断定的に定めているわけではないですが、聖ピオ10世会の彼らは、英国聖公会の司祭叙階が無効であること、ルター、カルヴァンらが異端として排斥されたことは、「不可謬的」であると主張しています。「不可謬的」であるということは、その判断に間違いはないということで今もそうした認識は変わらないことになりますが、バチカンがその様なことを言っていますか?

英国聖公会の叙階が無効だとバチカンが言っているかどうかといえば、もちろん言っている。たとえば、1896年の教皇レオ13世による自発教令「Apostolicae curae et caritatis」で、聖ピオ十世会の小野田神父のサイトで読める。
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/leoppacc.html
もし翻訳その他で不信があるならば、邦訳されている『ディンツィンガー・シェーンメッツァー資料集』(エンデルレ書店)でも(一部)読める(DZs 3315〜3319)。
教令は、英国聖公会の叙階の司式において必要な形相である言葉「司祭の職務と働きのために」が一時期欠けていたことを指摘している。

後に「司祭の職務と働きのために」という言葉がこの形相に追加されたが、これは最初の形相に欠点があり不適当であったことに、英国教会が気づいたことを証明するものである。この追加は、形相に必要な意味を与えることができるとしても、取り入れるのが遅すぎた。すなわち、この追加が行われたのは、エドワード王の叙階要文が作成された後に1世紀が過ぎてからであり、聖職階級はすでに消滅してしまっており、叙階する権力が残っていなかったからである。
司教の聖別についても同じことが言える。



Apostolicae curae et caritatis(Dzs 3316-3317(1964-1965))

『叙階要文』のどこにも、いけにえ、聖別について、司祭が、聖別し、いけにえをささげる権利を持つことについて、明白に記されていないだけでなく、上に述べたように、カトリック教会の儀式の祈りに含まれていたこれらのすべてが故意に除去され、削除されてしまっている。


ibid.(DZs 3317a)

教令は、秘跡が有効であるために必要な「教会が行うことを行おうという意向」が欠けているとも言う。

この形相の欠陥に加えて、秘跡を形成するために同じように当然必要となる「意向」が欠けている。意向は本来内的なものであって、教会はそれについて判断をくださないが、それが外部に現れるとき、それを判断しなければならない。秘跡を挙行し、これを授ける場合、正当な質料と形相とを慎重に正しく使用することによって、教会が行おうという意向があると考えられる。この原則から、異端者あるいは非受洗者によって授けれらた場合でも、カトリック教会の儀式に従って授けられたものであれば、真の秘跡であるという教理がある。これに反して、教会によって受け入れられていないことを採入れ、秘跡の本質に関してキリストの制定によって教会が行うことを拒否しようという明白な意図によって儀式が変えられた場合には、秘跡に必要な意向が欠けているだけでなく、秘跡に反し矛盾する意向を持っていることは明らかである。


ibid.(DZs3318(1966))

要すれば、英国聖公会の叙階には形相と意向が欠けているため無効である。それゆえ、英国聖公会の聖職者はカトリックに帰正する際、無条件の再叙階が求められる。(『ディンツィンガー・シェーンメッツァー資料集』文書解説p499および「事項索引p708参照)
この書簡以前にも数度、同様の見解が教皇および聖座から発せられているが、それを改めて確認している。

提起された問題は、すでに使徒座によって取扱われ、判決がくだされている、と一致した。しかし、同じ問題について私の権威をもって再び宣言すべきであるという結論に達した。先任の諸教皇のこのことについての教令にしたがって、これを全面的に認め、これを私の権威によって新たに確認し、自発教令によって、英国教会の儀式に従って行われた叙階は無効であったし、今も完全に無効であると宣言し、公布する


ibid.(DZs3319)

この決定は教義そのものとは言えないかも知れないが、「叙階」の教義に結びついた事柄に関する決定なので「不可謬」と解せる。第二バチカン公会議公文書「教会憲章」Lumen Gentiumから引いておく。

司教団体の頭であるローマ教皇は、自分の兄弟たちの信仰を固める任をもつすべてのキリスト信者の最高の牧者および師として、信仰と道徳に関する教義を決定的に宣言するときその任務の権能により、この不謬性をもっている。(LG25)

1896年、すなわち100年以上も前のことだから意味がないというのなら、それ以降この決定を覆した公式の教会文書を挙げてほしい。第二バチカン公会議公文書中に、英国聖公会の叙階の無効性を否定したものがあるとでもいうのだろうか。かりにこの決定が不可謬ではない単なる通常教導権によるものだったとしても、公に撤回されていないのならば、現在でも有効と見なさなければならない。もちろん、この決定が不可謬であるならば、これに反する文書があったとしてもその文書に効力はないのであるが。

ところで杉本氏は、次のようにも述べている。
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20070131/p2

ルフェーブルは公式に破門され、会自体もヨハネ・パウロ2世からは1988年、和解の勧告+破門の予告をなされ、辛うじて公式の破門だけは猶予されていますが、彼らの叙階が今も有効といえるかどうか、私は甚だ疑問です。実際、ミサは上げさせてもらえないどころか、聖職者としてはいずれのカトリック教会へも出入り禁止。彼ら自身が第二バチカン公会議を完全に否定しているからです

まず、「有効になされた叙階は取り消しえない」というのが教会の教えである(CCC1581-1583)。したがって、ローマ教会で有効に叙階された聖ピオ十世会の司祭の叙階は取り消しえない。それゆえ、杉本氏が叙階に疑問を持とうが持つまいが、聖ピオ十世会の司祭の叙階が今でも有効なのは客観的に真である。なぜなら、有効になされた叙階の真の執行者は神だからだ。
実際、ルフェーブル大司教と数人の司祭の教会法による破門について触れた教皇書簡「エクレシア・デイ」(1988年)に基づいて、聖ピオ十世会の賛同者との和解のために設立された「エクレシア・デイ委員会」の事務局長であるモンシニョール・ペルルは、委員会名の書簡(2003/1/18)において、次のように述べている。
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila087.html

(1) 聖ピオ10世会の司祭たちは、有効に叙階されていますが、司祭の聖職は停止されています。彼らが、故ルフェーブル大司教の離教を支持する限り、彼らは破門されています。
(2) 具体的にこのことは聖ピオ10世会の司祭たちによって捧げられたミサは有効ですが、非合法です。つまり、教会法に反しています。

教皇庁認可の委員会の事務局長によっても、聖ピオ十世会の司祭は職責停止を受けていても叙階は有効であり、彼らのミサは非合法ではあってもやはり有効であることになる。まさに「異端者あるいは非受洗者によって授けれらた場合でもカトリック教会の儀式に従って授けられたものであれば、真の秘跡である」(Apostolicae Curae et Caritatis(DZs 3318(1966)))。つまり、聖ピオ十世会がかりに「第二バチカン公会議を完全に否定している」としても、会の司祭は有効に叙階されており、そのミサも有効である。従ってペルルは、「聖ピオ10世会のミサに与っても、主日の義務を果たしたことになる」という。有効だからである。「聖ピオ10世会のミサに与っても、教皇との交わりを故意に絶とうという意志の下でなければ、罪にはならない」ともいう。有効だからである。従って、聖ピオ十世会の司祭は「自称」ではない。