「教会の外に救いなし」補足
(教会公文書は緑字で引用)
私はかつて以下のように書いた。
「教会の外に救いなし」
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20041229/p2
「不可坑的無知の場合のように、暗に含まれた願望」という措辞を見よ。これは、「教会について現に知らないのだが、もし知っていたとしたら、すすんで所属したであろう」ような状態を指す。
「誰が救われるのか」
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20070203/p1
暗示的なものも含めた願望による教会の成員」(不可抗的無知により現に教会を知らないが、知っていればすすんで所属していたであろう状態にあるひと、と言いかえられよう)
この太字部分の「現に教会を知らないが、知っていればすすんで所属していたであろう状態」は、私が文脈から自力で編み出した言い方なのだが、CCC(Cathechism of the Catholic Church)の「暗黙の願望による洗礼」について書いている箇所に同様の表現があることに気づいたので、引いておく。
キリストの福音および教会を知らないが、彼の理解に応じて真理を探究し神の意志を行っているすべての人は、救われうる。そのような人はその必要性を知っていたならば明示的に洗礼を望んでいたであろうと想定されよう。
CCC 1260
願望による洗礼についてではあるが、cross-referenceで「教会の外に救いなし」該当箇所に参照づけられているので、「事実上の教会外での救い」に関連づけられていると解してよかろう。
さらに私はこうも書いた。
「教会の外に救いなし、再び」
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20061028
ここであえて指摘しておく必要があるが、「すべてのひとは救われるために教会の成員である必要がある」(教会の外に救いなし)は不可謬の教義であるが、「教会外のひとも救われうる」はそうではないということだ。回勅や憲章にあらわれる以上、他の教義と矛盾しないかぎりで、これも信ずべきではあるが、教義としてのレベルがぜんぜん異なる。
実際、第二バチカン公会議公文書「教会憲章」Lumen Gentium 16およびCCC 847、上掲のCCC 1260の文章は、「救いのための教会(洗礼)の必要性」という強い表現に比べれば、非常に「弱い」表現に思える。ポピュラーな教義解説書Ludwig Ott"Fundamentals of the Catholic Dogma"(TAN Books)によれば(p356)、「緊急の場合、願望の洗礼ないし血の洗礼は、水の洗礼に代わりうる」はSententia fidei proximaであり、不可謬の教義de fideではない(ただし、不可謬でない教義でも、信者に信ずることを拒否する自由はない)。ちなみに「血の洗礼」とは未受洗者の殉教のこと。
いずれにせよ、「教会の外に救いなし」はまずもってカトリック信者に向けられたものであることは強調しておいてよかろう。とはいえ、聖職者や平信徒がこの教義について他者に出鱈目を言ってよいということにはならない。