Mediatrix 仲介者マリア:センチメンタルな旅(7)

アメリカの代表的カテキストであるJohn A.Hardonは、第二バチカン公会議におけるマリア論の扱いについて次のように書いている。

「教会憲章」(Lumen Gentium)に、教会における「マリア主義」の最小限化を読み取った者もいる。彼らが言うには、マリアを結論部に追放することによって、公会議は神の母への極端な信心に抑制をかけたのだ。まったく逆である。救済の業において、またキリストとの関係、教会との関係においてマリアの占める位置は、神秘体という大きなパースペクティブの中に統合されることで高められている。

"The Catholic Cathechism",pp163-164

Hardonは以下、キリストのmediater(仲介者)、redeemer(贖罪者)、souce of grace for mankind(人類への恵みの源泉)に対する、マリアの後続的役割について述べているので、この記述がLumen Gentiumにおける第五の教義にかかわるマリア論の発展への言及であるといっても、間違いにはならないだろう。竹下節子が言うように、第二バチカン公会議において第五の教義は教義宣言されてはいない。しかし、公会議に基づくこのLumen Gentiumにおいて、堂々と白日のもとにそれは公言されている。決して「退けられて」いるわけではない。
実際、第五の教義宣言請願運動「仲介者マリアの民衆の声」代表Miravalleも、Lumen Gentiumは、マリアの「共同贖罪者」について確かに教えている、と述べている。

第二バチカン公会議はその準備段階において、マリアの「共同贖罪者」およびすべての恵みの仲介者としての後続的役割についての荘厳宣言のための450以上の請願を受けた。定義的性格を有しない司牧的な公会議としては、マリアの「共同贖罪」の確かな教えを提示することで十分と見なした。公会議は、教会に関する教義憲章Lumen Gentiumにおいてそれを実行した。聖母に捧げられた第八章で、司教らは彼女の共同贖罪の役割を明確に教えている。

'The Immaculate Conception and The Co-Redemptrix'"The Immaculate Concption in the Life of the Church",p185

ちなみにMiravalleは、第二バチカンにおいて荘厳宣言がないという事実は、「共同贖罪者」の教義の定義可能性に反対する論拠にはなりえないと釘を刺している(この公会議の「司牧的」性格のため)。いちいち言うまでもないが、いわゆる不可謬の教義を含めて信ずべき教義のすべてが「荘厳宣言」されているわけではない。さて、Miravalleは続けてLumen Gentiumから三箇所(56、58、61)を挙げているので、邦訳(教会憲章)からそこを引いてみよう。

心から、いかなる罪にもひきとめられることなしに、神の救済の意志を受諾し、子のもとで、子とともに、あがないの秘儀に仕えるために、主のはしためとして子とその働きに完全に自分をささげたのである

Lumen Gentium 56

こうして聖なる処女も、信仰の旅路をすすみ、子との一致を十字架にいたるまで忠実に保った。マリアは神の配慮によって十字架のもとに立っていたが、子とともに深く悲しみ、母の心をもってこのいけにえに自分を一致させ、自分から生まれたいけにえの奉献に心をこめて同意した。ついに、十字架の上に死のうとするキリスト・イエズスによって、「婦人よ、これがあなたの子です」ということばをもって、マリアは母として弟子に与えられた(ヨハネ19:26-27)。

Lumen Gentium 58

マリアはキリストを懐胎し、生み、育て、神殿で父に奉呈し、十字架上で死去した子とともに苦しむことによって、従順、信仰、希望、燃える愛をもって、人々の超自然的生命を回復するために、救い主のわざに全く独自な方法で協力した。このためにマリアは恩恵の世界においてわれわれにとって母であった。

Lumen Gentium 61

Corredemptorix共同贖罪者という言葉こそ使われていないが、それが表現する内容については、これ以上ないというくらい的確かつ十分に表現されている。マリアの「共同贖罪」の役割が受肉における子宮の提供ということにとどまっていないことは明らかである。キリストの救済のために営まれた公生活すべてに渡って、神の母として、十字架の死に至るまで全力でつき従ったとされている。言うまでもなく、それは単なる事実の提示を超えて、神の救済の意志の秘儀を啓示している。
LG58に書かれているように、マリアの共同贖罪の役割は十字架の下で絶頂に達している。ここにシメオンの預言「母の心も剣で刺し貫かれるだろう」の反響を聞くことは困難ではない。自らの十字架を負うこと、十字架の死におけるキリストとの一致などは、キリスト者すべてに当てはまることである。だが、まことの「神の母」としての共苦は他と比較できるものではない。それは自然的な母子関係からも類推できる。「救いのわざにおける母と子との結合」(LG57)の比類のなさが「共同贖罪者」というタイトルをマリアに相応しいものにしているわけだ。

「贖いの仲介者」というマリアの称号は、子との一致において自由意志をもって彼女が負う苦しみから来ている。人類の罪は神人の受難を求めた。神人は最も愛する者であるがゆえにこそ、その母に苦しみの共有を求めた。彼女の共苦は、彼女自身の苦難の主源泉であった。

"The Catholic Catechism"p169

このように見ていくと、「共同贖罪者」の思想はいわゆる第一の教義「神の母」(テオトコス)というマリアの称号においてすでに含蓄的に表明されているとも言える。マリアは単に「人間イエス」を生んだわけではなく、人性とともに神性を合わせ持つ一つのペルソナを生んだ。まさしく「神の母」は「救済者の母」(レデンプトリス・マーテル)でもある。
Lumen Gentium(たとえば60、62)も第五の教義の推進者も、マリアの役割がキリストに対して副次的なものであることを強調している。しかし、その教義の確立とともにマリアの地位が漸進的に高まっていることは否めない。第五の教義が批判を受けるのも、マリアをほとんどキリストに一致させるまでに高めてしまっているという疑義からで、そこには一定の理がないとはいえない。というのも、高められることでマリアは全被造物から限りなく離れた所に位置づけられてしまうからだ。かりにマリアが「仲介者の仲介者」であるというのなら、人類との近さを奪うことはその意に沿わない不可解な仕儀となろう。
このマリアの「近さ」と「遠さ」(神に対する、人類に対する)という問題系は、キリスト類型的マリア論とともに教会類型的マリア論を考慮に入れることで、はじめて正当な形で提起されよう。実際のところをいえば、第五の教義において、被造物としてのマリアは神の位置へ向かってぎりぎりの所まで上昇していると同時に、救済の業への参与においてわれわれ人類に可能なかぎり近づいている。Lumen Gentiumはマリアの仲介者としての役割の記述を、以下のように締めくくっている。

事実、いかなる被造物も受肉したみことば・あがない主と同列に置かれてはならない。しかし、キリストの司祭職に聖職者も信者の民も種々の様式で参与するように、また、神の唯一の善性が被造物に種々の様式で現実に広げられているように、あがない主の唯一の仲介は造られた者が唯一の泉に参与しながら行う種々の協力を拒絶するものではなく、かえってこれを引き起こすのである。
教会はこのような従属的なマリアの役割をためらわず宣言し、絶えずこれを経験し、なおこの母の保護にささえられて、仲介者・救い主にいっそう親密に一致するよう、これを信者の心に勧める。

Lumen Gentium 62

人類はマリアとともに、またマリアを通して、救いの協力者である。マリアのある種アンビバレントな位置は、さしあたり共同贖罪の「代表者」ということで解消されよう。

(この項未完)

Lumen Gentium


Mediatrix 仲介者マリア:センチメンタルな旅(6)