Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(4)

スコトゥスの弁証によって神学的な解決(証明に非ず)をみたので、無原罪懐胎の教理と祝祭の正当性はさしあたり明らかになった。まずバーゼル会議(1439年)において肯定的な文書が出された。有効な公会議ではなかったが、この文書は強力な武器となった。Pelikanによれば、「十五世紀の末までには、バーゼル会議の権威によるのであれそうでないのであれ、この教理は西方のキリスト教世界では一般に受け入れられるところとなり、信者らはそれを信じ、博士らはそれを教えた」("Maria through the centuries"pp198-199)。
特にフランシスコ派を中心に神学者や司祭の中に支持が広がっていったが、アクィナスの薫陶を受けたドミニコ派は批判的態度を維持した。論争が激烈化したため、教皇シクストゥス四世は「異端宣告」することを双方に禁じる文書「Grave Nimis」(1483年、Dz 1425-1426)を出している。以後1854年の教理宣言まで、「無原罪懐胎」教義はたしかに全信徒を拘束するものとして提示されたことはないものの、教皇庁の態度はおおむね好意的である。
(この点で竹下『マリア <異端>から<女王>へ』の記述は、ベルナールやアクィナスによる批判やソースの明らかでない検邪正省の「無原罪懐胎」を異端とする教令を取り上げる一方、この教義に関して欠くことのできない神学者であるスコトゥスもそれ以降の教皇文書も一切無視しており、教義の発展の歴史を不当に歪めている)
まず、最重要な会議の一つであるトレント公会議の第六総会で出された原罪についての教令(1547年、Dz 1516)では、原罪に関して「マリアを例外とする」とし、前述の「Grave Nimis」を追認している。
教皇についてはたとえば、教皇ピウス五世は大勅書「Ex Omnibus afflictionibus」(1567年)において、異端とされたバユスの命題のうち次のものを非難している。

<排斥された命題>

キリストのほかに誰一人として原罪から免除されていない。したがって、聖母マリアはアダムの犯した罪のために死んだのである。それで、マリアのこの世での苦しみは、他の義人たちと同じように、自罪または原罪の罰であった。

Dz1973(1074)

教皇グレゴリウス十五世(1622年)は、この教義への敵対者に(文書と私的説教においての)謙虚な沈黙を課した(ローマの使徒座が決定するまでは)。教皇アレクサンデル七世は小勅書「Sollicitudo omnium ecclesiarum」(1661年)で、教皇グレゴリウス十五世の決定に言及したうえで、この教義を支持している

私は聖なるローマ教会が終生処女聖マリアの受胎の祝日を祝い、特別の聖務日課を定めたことを考え、この信心と祝日と崇敬を支持しようと望み、・・・聖マリアの霊魂がつくられ体に入れられた時、聖霊の恩恵によって原罪から免除されていたという主張を支持している諸教皇の教書と教令を再確認する。

Dz2017(1100 Ⅱ)

ディンツィンガー資料集邦訳版註によれば、この勅書においてもなお自由討議は許可しているらしい(肝心のその箇所はなぜか収録されていない)が、いずれにせよ神学者の間でのマリアへのこの特権への疑いは徐々に小さくなっていった。

ここで原点に戻り、大勅書「Ineffabilis Deus」(1854年)における不可謬の教義宣言を見ておこう。そもそもカトリックがこの教義に関して何を言っているのか、あるいはむしろ言っていないことは何か、を明確にすることこそ重要なことであろう。

人類の救い主キリスト・イエズスの功績を考慮して、処女マリアは、全能の神の特別な恩恵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから、前もって保護されていた。

Dz2803(1641)

この勅書はいわゆるEx Cathedra「聖座宣言」として出されているが、ピウス九世は1848年にこの問題についての諮問会議を設け、1849年に前もって全世界の司教に意見を求めるための回勅を送っている。その結果603人中546人(九割以上)の賛成を得たうえでの教義決定である。
文章はこれまでの無原罪懐胎についての議論を踏まえて非常に凝縮していたものになっている。ここで主張されていることを細かく見ていくと次のようになろう(以下、分類はJohn Hardon"The Catholic Cathechism"p158による)。

(1)この無原罪性は神の特別な恩恵による。
本性から「無原罪」であるキリストとは異なり、マリアの側には一切のイニシアティブがない(同じく疑惑の目で見られがちな「Assumption」の訳語「被昇天」はこのイニシアティブの無さを表現しえて妙である)。マリアについての教義を考える上で非常に重要な事である。
(2)キリストによる贖いの功績にあずかっている。
マリアもまた救われる必要があった、ということである。このことでキリストによる万人に対する贖いの価値は一切傷けられず、かえって高められる。なぜなら、原罪からの保護こそ完全なる贖罪と呼べるからだ。
(3)他の人類が陥るところの原罪を免除された。
神の介入なしには、マリアもまた原罪に陥るはずだった。この点で他の人間と異なるところはない。むしろ他の人間もまたかような無原罪の状態をマリアの中に見ることができるという意味で、マリアは全人類の希望の姿でもある。
(4)この免除はその母の胎内における懐胎の最初の瞬間に起きた。
マリアは誕生の瞬間から死に至るまで、全生涯において神の聖寵を欠くことがなかった(「聖寵満ち満てる者」)。それはまさに、「第二のイブ」と呼ぶに相応しい高貴と威厳を示している。

少なくともこの定義に、(部分的にはプロテスタントとも共有する)他の諸教義と矛盾するところはない。プロテスタント側では、有名なバルトの「神学的思考の病的形成物」という非難をはじめ、もっぱら激烈な批判や反感しかないように見える。しかし、たとえばプロテスタントの教義史学者ゴットフリート・マーロンは十九世紀に「マリア像を取りもどそうという動きが出てきた」と指摘している。

この問題は十九世紀中頃、ピウス九世が一八五四年にマリアの無原罪懐胎を教理化したことにより、新たな地盤と意味合いとを持つことになった。これ以後、激しい拒絶と好意的賛同とが平行するようになる。
新しい教理に対して、これ以後も理解を示している例として、プロイセンの保守的神学者E・W・ヘンクステンベルクの場合がある。彼は一八五五年に、この教理を擁護して、これは「マリア神格化への足がかり」を与えるものではないと述べている。これの数年後、プロテスタント教会の牧師ディートラインもまた、この教理に理解ある評価を与えようと努力している。彼はこれを極端な立場表明とはみなさず、むしろ「これまで支えを欠いて、度を越した誤解の犠牲になっていた観念の用心深い純化とみなした。彼の小著『プロテスタントのアベ・マリア』(一八六三)は、その題名からして、新教の側におけるマリアの「絶望的に否定的な位置づけ」を修正しようとしたものであることがわかる。

プロテスタントとマリア」『マリアとは誰だったのか』p106

マーロンはつづけて、これらの運動は結局は挫折し、プロテスタント界は全体に拒絶の方向に大きく傾いて行ったとしている。しかし、プロテスタント側にも、この教義宣言が、誤解を防ぐための定義決定でありマリアの「神格化」を意味しないということに理解を示す識者がいたことは興味深い。

(この項つづく)

Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(3)
Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(2)
Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(1)