Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(3)

無原罪懐胎教義に反対した神学者たちは、アクィナスに見られるとおり、魂の注入と聖化との間に、かならず一定の時間の経過を要する(ほんのわずかではあっても)と考えていた。それゆえ彼らは子宮内での聖化は積極的に支持(それゆえ「聖母の出生」の祝祭ならオーケーなのだ)もしたが、無原罪懐胎は否定した。古代から中世にかけて、男児とは異なり女児においては、胎児への魂の注入が受胎の三ヵ月後とされたことも混乱を大きくしたといえる。ただし、アクィナスは注入の瞬間について、いつの時点とは指定しておらず、理性的魂と肉体との合一の瞬間を生命活動(animatio)の開始とした。これは以後の(受動的)「懐胎」(conceptio)の定義にも継承され、1854年の「Inefabillis Deus」での不可謬の教義宣言にも受け継がれている。
スコトゥスは聖化の時間を遡行させ、究極的には生命活動開始の瞬間に一致させるところまで突き進んだ。まるで二次曲線の接線を求めるようにだ。スコトゥスは生命活動が聖化(贖罪)に先行するのは、時間的に(ordo temporis)ではなく概念的に(ordo naturae)そうであればよいと考えた(「先−贖罪」(praeredemption))。
(Ludwig Ott"Fundamentals of Catholic Dogma"(FCD)pp201-202、『カトリック神学事典』「聖母マリアの無原罪の宿り」の項、、Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception等参照)

たとえば創世記の記述に即して考えてみよう。蛇の誘惑ののち、生命の木の実を食べる前に神の介入があって、イブの堕罪がなかったとしたら? マリアの懐胎の際に生じたのもそのような神の介入だったとしたら?
Dave Armstrongは以下のように説明している。

中世の神学者たちは、マリアはすべての人間と同じく救われた(イエスはすべての救済と贖罪の源として彼女のためにも死んだ)と論じた。しかし、別の仕方で。彼らは森にある穴にたとえた。もし、誰かが穴に落ちたとして、他の誰かがロープをたらして上に引き上げて助けたとしたら、彼は「救われた」と言える。しかし、落ちてしまう前に、誰かが引き止めて助けたとしても、やはり彼は「救われた」と言える。穴は罪(と原罪)を意味し、助けは神とその恩寵である。マリアは決して穴に落ちなかった。だがだからといって、彼女が救われなかったとか、そこから助けられなかったとは結論できない。彼女はたしかに助けられた。それが起こった瞬間に生を受けたのだから、神の恩寵によって完全に助けられということなのだ。またそうでなくてはならなかったのだ。

"Was Mary's Immaculate Conception Absolutely Necessary"

マリアは罪の下に罪なしに生まれた。つまり、マリアもまた、神の介入なしには原罪に陥らねばならなかった(この点で他の人間と同じ)が、彼女の子である贖罪者イエス・キリストの功績を予見して、神は豊かな恩寵により彼女を原罪から救った。これが無原罪懐胎に込められた意味である。スコトゥスはいわば「仮定法過去」という条件の下で、マリアの贖罪の必要性と無原罪懐胎とを和合させたのだ。
言うまでもないが、これは「無原罪懐胎」の証明ではない。あくまで、それが贖罪の必要性と矛盾しないということの弁証でしかない。しかし、こうした弁証こそは本来神学の使命なのだと言える。たとえば「受肉」の秘義そのものは神の啓示によるのだから理性によって証明することはできない。しかし、その深い意味を探求し解明していくことに意味がないなどということはないはずだ。
「無原罪懐胎」が真理であるのは、他の多くの教義と同様に、究極的には「神の啓示」に基づカトリック教会はそれを教会の権威のもとに不可謬の教義として宣言しただけである。
プロテスタント、あるいはカトリック内での批判者が指摘するだろうように、「無原罪懐胎」は聖書に書かれてはいない。スコトゥスは聖書にも聖伝にも、このことが明示されていないことを認めている。ここでスコトゥスイードマーが持ち出したスコラ学の「最大化」の公理(一般に「神はできた、すべきだった、ゆえにした」という標語として知られる)を利用する。つまりこういうことだ。

(1)無原罪懐胎(原罪に陥らないように救う)
(2)子宮内聖化(懐胎している間に救う)
(3)出生後聖化(生まれてから救う)

神は全能であるから、このうちの三つのどれでも可能であった。スコトゥスは言う、
「もしそれが聖書の権威と教会の権威に矛盾しないならば、マリアにより多くの優越を帰する方が、より少なくそうするのよりは好ましい」
「同じ間違いならば、彼女の有する優越を不当に除き去ってしまう間違いよりも、彼女に特権を与えすぎる方で間違う方がいい」
すなわち「信じ教える場合、少なすぎるよりも多すぎる方がよい」。
従って、救済史におけるマリアの優越性を鑑みるに、(1)がもっとも彼女に相応しいということになる(最大化)。前述した通り、スコトゥスによれば、無原罪の懐胎は贖罪と矛盾しない。そればかりではなく、それは贖罪の思想の延長上にある(二次曲線上で接線を求めること・・)。スコトゥスは事をひっくり返してしまう。マリアがこのように原罪なしに懐胎されたということは、むしろマリアは他のすべての人間にまさって贖罪の必要性があったのだということになる。原罪を除去することよりも、そこから保護することの方が、より完全な贖罪だからだ。アクィナスの「保護する聖化(贖罪)」というアイデアを自分のものとして、スコトゥスはかように弁証した。
(Jaroslav Pelikan"Maria through the centuries"pp196-197等参照)

初期教父からはじめて十九世紀に至るまで、神学者の間に意見の一致があったのは、聖母マリアが他の被造物に比して、より高い聖化を受けていたという思想である。聖化は神への近さ、親密さを表す。聖化されていればいるほど神に近い。Dave Armstrongは次のように指摘している。「無原罪の御宿りは、実際最初から最後まで聖書の全ページから引き出せる理念を至高の形で実現しただけである。その理念とは、『神は聖なるものである。彼に近づけば近づくほど、聖なるものである必要がある』」("The Biblical Diffence of Catholicism"p182)。「神の母」(テオトコス)であることほど、神への近さ、親密さを示すものは他には考えられない。それゆえアクィナスすら、天界においてマリアは天使よりも高い所にいると信じていた。

図にするとこうだろう。

神>マリア≧天使と諸聖人≧他の被造物

マリアも被造物である以上、いくら聖化されたからといっても、神になるわけではない。その点では他の被造物と異なるわけではない。ただ聖化の度合が違うのだ。スコトゥスは「最大化」の公理に従って、神がマリアに、それ以上はないところまでの「究極の聖化」を成し遂げたと考えたわけだ。東方の神学において熟成していた「神化」の思想からとらえてみるのも面白いかも知れない(たとえば落合仁司『地中海の無限者』を見よ)。いずれにせよ、このことは、私たちもまた恩寵による「聖化」を受け、神に近づくことができるという希望を、最高の形で表現してもいる。
神はなんでもおできになる。それゆえ、私たちもまた(神がそう望めば)無原罪で生まれてくることもできた。こう信じることはかくべつ困難ではない。そして、特別に選ばれたマリアに実際にそのことが起きた。こう信じることはそれほど困難なことだろうか。困難なのは次のような疑問が生じるからではないだろうか。
なぜ彼女が? 私、でなく。
このことをほんとうに理解するためには神の「選び」についての深く長い熟考を要する。それはここでの仕事ではない。

わたしが自分のものを自分のしたいようにするのが、なぜいけないのか。それとも、わたしの気前のよさを、あなたはねたむのか。

マタイ20:15

(この項つづく)

Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(2)
Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(1)