Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(1)

平均的な日本人に向かって「人間は生まれながらに罪はない」と述べたとしよう。強いて感想を聞くならば、おそらく多くの者は「何言ってんの、当たり前じゃないかそんなの。」と答えることだろう。そうだとすると、マリアが罪なしに生まれた、というのはとりたてて驚くべきことを言っているのではないことになる。
マリア無原罪の御宿りの教義は、マリアを「神格化」することになるなどとして、特にプロテスタント側から激しい批判を浴びている、ローマカトリック教会の教義の一つである。しかし、批判が批判として意味を持つためには、実は「人間は生まれながらに罪あり」という考えが前提となっているわけだ。非信仰者には、生まれながらに罪がある、しかもその罪は人類の始祖から遺伝的に万人に伝わっているなどという教えの方が理解に苦しむはずだ。
ニューマン枢機卿はこのあたりの事情を考慮して、次のように語っている。

無原罪の教義よりも難解な教義はいくらでもある。原罪がそうだ。マリアには難解なところはない。原罪なしに魂が身体と結びつくということを信じるのは困難ではない。幾百万もの人間が原罪とともに生まれるということこそ、大いなる謎である。われわれのマリアについての教えは、一般的な人類の状態についての教えに比べればまったく理解するにたやすい。

Dave Armstrong"A Biblical Evidence of Catholicism",pp186-187(孫引)

本来骨折って弁証されるべきは「原罪」の教義であって「無原罪」の教義ではない。人間に罪あり、というのは、この世にはびこる悪の現象を一瞥するだけで首肯できるが、それが「生まれながらに」かどうかは大いに疑問の余地がある。ましてや、始祖から伝達される「罪」なぞ・・。
原罪をもって生まれてくることを当然視するのは、そもそもがキリスト教パラダイムを介したものの見方なのであって、そこからしてはじめて「マリア無原罪の御宿り」の教義は異常に見えてくる。Dave Armstrongは自身のサイトで、堕落以前のアダムとイブ、天使達の例を挙げて被造物が無原罪で生まれることはあると指摘したうえで、つまるところ「堕落が人類にとって異常なのであり、マリアの無原罪懐胎は異常ではない。それは単に正常な状態への回帰なのだ」と述べている。
"Was Mary's Immaculate Conception Absolutely Necessary?"


そういうわけで、「無原罪懐胎」はマリアの「神格化」にはぜんぜんなりそうもない。そもそもプロ・カト問わず、無原罪への復帰、堕落以前の状態をこそ信者は求めているのだからなおさらである。マリアの無原罪が「神格化」を意味するのならば、信者のそうした望みもまた自らの「神格化」を目指すことになってしまう。これは明らかにおかしい。
では、さしあたり原罪の教義を前提とした上で話を進めてみる。そうすると無原罪懐胎の教義について、マリアを人間の中でいわば「特別扱い」をしていることが非難の的となってこよう。神の前では皆平等というわけだ。しかし、神がその救済史の中で特定の人間を召命し特別の恩寵を授ける例は、聖書の中にいくらでもある。それがマリアに許されないという理由はない。そこに神の働きの偉大を感じ、讃えるということは、その人間自体を神のごときものとして崇めることとはほど遠い。そこに現れているのは、神と人との親しい交わりであり、そこにこそ人間の尊厳を認めることすらできる。カトリック学者吉山登が次のように書いているのは、すこぶる示唆的である。

マリアを神格化していると非難する傾向が、プロテスタント神学者の中に見られることから考えられることは、キリスト教における神の問題を純粋に考えれば考えるほど、秘かに人間は人間を軽視する傾向があるのではないかということである。教会の神学の歴史を振り返ってみれば、イエスの神性と人性の調和ある理解に達することが、いかに難しく、いろいろな偏りのために異端として斥けられる説が生じた現実を知る。キリストを真の神、真の人間として認めることは、罪にもかかわらず人間の本性は失われず、その上、神が人となってまで人間を神の生命に与らせることによって、人間的には考えられない品位も、人間に認めなければならないのである。このような神による人類の救済は、神の無償の愛、純粋なる神からの恵みという以外ない。
さらに、神が人となるために、マリアという一人の人間において受肉するということは、神が人類の救いの業に人間をも与らせるということになるのであるから、救いの神秘も考え直させられるのである。
神学的にいえば、キリスト教においては、受肉論、救済論、秘跡論、教会論という教義の重要な部分すべてが、人間に関する独特な見方を示している。その意味では、キリスト教は神の教え以上に人間についても独特な教えを説いている

吉山登『人と思想 マリア』、p79-80

さて、「人間平等主義」的反論をもっと神学的な形式に直してみると、「無原罪の教義は原罪の教義と矛盾する」となる。ネットでのプロ・カトの議論はほとんどがここに集中し、右往左往した上で停滞してしまう。ついには互いに「バカの壁」を感じて対話はストップする。結局のところマリアの教義について語るのは不毛であり、平和的共存のためにはタブーにしておきましょうという「市民的寛容」が発揮されるわけだ。
さしあたって言っておくべきは、この「矛盾」、原罪の「例外」という問題は、カトリックの教義史においても、はやくから自覚されていたということだ。それゆえ、この教義の賛成者たちは、マリアの無原罪と原罪の普遍性との間でどう折り合いをつけるかに苦心してきた(決定版はスコトゥスによって与えられた)。それゆえ、今になって突如生じた批判なのではない。見かけ上「矛盾」する教義ならほかにもあり、その中にはもっとも重要なものも含まれている。「三位一体」しかり、「二性一位格」しかり。これらは多くのプロテスタントも根本教義として認めているが、それが教義として定式化されるまでには数百年にわたる議論が展開されている(しかも、今に至るもなお神の三一性は「秘儀」のままなのだ。素晴らしい!)。「マリアの無原罪の御宿り」についても、その背景に多くの屍を築いてきたことを想像してみる必要がある。「一九世紀も半ばになって、どうして突然、教義として取りあげられたのだろうか」(竹下節子聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』、p126)というのは愚問であるといえよう。

(この項つづく)