Extra Ecclesiam nulla salus 教会の外に救いなし、再び

かつて私は、第二バチカン公会議で「教会の外に救いなし」という教義が廃止され、異教徒も救われるようになったと主張するあるクリスチャンに対する論争のなかで、一方で「第二バチカン公会議においてこの教義は廃止されていない」こと、他方で「教会外での救済の可能性はそもそもカトリックの伝統的思考である」ということを、一次文献を示して反駁したことがある。

http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20041229/
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20041210/

この教義も曲解もしくはきわめて曖昧に理解されていることが多いので、ここで整理しておこう。(以下は主にLudwig Ott"Fundamentals of Catholic Dogma"(FCD)による)
「教会の外では救われない」というのは初期教父の一致した意見であり、この場合の外部は異教徒のみならず異端や分離派をも含意していた。教会はノアの箱舟に比せられ、洪水による破滅からの避難所であると理解されていたのだ。しかし、ためらいがちではあるが、教会外にいる者の救いの可能性についても語られてはいた。たとえば聖アンブロシウスや聖アウグスティヌスは、厳密な意味での教会の成員ではない、教理教育を受けた未洗礼者が洗礼前に死亡した場合、その洗礼への意志と内的回心によってその者は救われうるとしていた。
トマス・アクィナスは、伝統に従い、救いのための教会の一般的な必要性を述べたが、実際に教会の成員でなくとも、洗礼への望みがあれば、それは望みによる教会の成員であると見なし、救いの可能性を示唆している。
時代下って十九世紀に入り、近代の宗教無差別主義に抗する形で教皇ピオ九世は次のように宣している(回勅「シングラーリ・クワダム」)。

使徒より続くローマカトリック教会の外において救いはない、と固く信じられるべきである。それは唯一の救いの箱舟であり、入らないものは滅びる」(FCD,p312)

これは「教会の外に救いなし」のもっとも極端なヴァージョンである。ところが一転して、ピオ九世は以下のように続けているのだ。

「にもかかわらず、等しく確かなことがある。やむをえず真の宗教に対する無知に陥っている者を、そのことで主は罪あるものとはしない」(ibid,p312)

Ottは「後半の命題は事実として教会に属していない者の救いの可能性を述べている」と註釈しており、これは第二バチカンの「教会憲章」にまで流れ込んでいる、カトリックのひとつの定式ではある。(同様のピオ九世の「イタリアの司教にあてた回勅」は既出)
ここであえて指摘しておく必要があるが、「すべてのひとは救われるために教会の成員である必要がある」(教会の外に救いなし)は不可謬の教義であるが、「教会外のひとも救われうる」はそうではないということだ。回勅や憲章にあらわれる以上、他の教義と矛盾しないかぎりで、これも信ずべきではあるが、教義としてのレベルがぜんぜん異なる。
第二バチカン公会議以後「教会の外でも救われる」という教義に変わったなどというデマゴギーカトリック内外で広がっているのは、明らかに教義としての軽重の差を意図的に、もしくは無意識のうちに無視したことによるのだろう。ラッチンガーは、ラーナーの「無名のキリスト者」のような概念が、宣教の意志を大きく挫いたと嘆いている(THE RATZINGER REPORT)。たしかに教会の外であっても救われるのならば、あえて言挙げする意味はなくなる。キリスト教徒であるのは、たまたまそうなったのだ、ということになってしまう(実際、そのように公言する信仰者は多い)。教理省宣言(実質ラッチンガー起草だろう)『ドミヌス・イエズス』も、あきらかにこうした状況への危機感から出ている。
いかなる思想・信仰も同一の価値がある、と考えることは、本当に真理の探究といえるのだろうか? 思想・信条の自由とは、自らの考えを「正しい」と信じる権利でもあるはずだ。それを他者に物理的に強要しない限り、そう思うことは万人に許されている。
Ludwig Ottはこの教義を述べている章の締めくくりに以下のように書いている。

(この教義への)不寛容であるとの非難に対しては、教義的寛容と市民的寛容を区別する必要がある。すべての宗教、すべてのキリスト教信仰告白は同じ価値があるとするような教義的寛容(宗教無差別主義)、これは教会の拒絶するところである。真理は一つなのだから。しかし、教会は市民的寛容という礼節もわきまえているつもりだ。誤謬のうちにある人々をも含むすべての人間への隣人愛という戒律を説くことによって。

FCD,p313

言いようは考えるべきとはいえ、実際、信仰者としてほかにいかような立場がありうるというのか? 「教会の外に救いなし」とは、ひとつの、純粋な、真理への意志の表明なのである