Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(2)

著名な教義史学者Jaroslav Pelikanの"Maria through the Centuries"は、文化史の中でのマリアの位置づけを探求した良書であるが、「大いなる例外―無原罪の懐胎」の章(pp189-200)でこの教義を取り上げている。Pelikanはマリアに関する教義は(他の教義も多かれ少なかれそうだ)大部分東方教会で発展してきたが、この「無原罪懐胎」だけはもっぱら西方教会で独自に発展してきたと言う。なぜなら、それと密接に結びつく「原罪」の教義が主に西方で構築されたからだ。
アウグスティヌスは言うまでもなく「原罪」の教義への布石を打った大神学者であるが、彼は明確にマリアを「例外」としている。旧新約に義人は数あれど皆罪びとだった。だが「罪という主題についてマリアを例外にしたいと思う。疑いもなくいかなる罪も持たない主を生んだ功績を持つマリアへ、すべての種類の罪に打ち勝つ豊かな恵みが与えられたのだ」(『自然と恩寵』)。問題はここで言うマリアに免除された罪は「原罪」も含むのかどうかだ。無原罪懐胎の支持者はそれを肯定し、否認する者は否定することになる(Ott ECDp201では「文脈上自罪のみを指す」としている)。
マリアが(懐胎ではなく)出生の前に聖化されていたこと、自罪から解き放たれていたことについては、無原罪の教義に反対した聖ベルナールも聖トマス・アクィナスも含めて、ほとんどの神学者の同意があった。多かれ少なかれマリアが「例外」的な聖人であること自体は自明だったのだ。はっきりした無原罪理論は12世紀のカンタベリーイードマーを端緒とする。イードマーはスコラ哲学の公理として知られた「最大化」(decuit,potuit,ergo fecit;「神はすべきだった、できた、ゆえにした」)によってこれを弁証した。しかし、原罪の普遍法との矛盾は解消されないままだった。
当時の考えでは、親より原罪とともに受け継ぐ肉体が形成された後、理性的魂が吹き込まれて生命活動がはじまると考えられていた。そこから次のような弁証も生じた。間違いなくイエス・キリストは無原罪で懐胎した。原罪は肉の相続によって伝わるのだから、その母も懐胎時から無原罪でなくてはならない、と。しかし、これは容易に奇妙な結論を導く。ではマリアの母も無原罪でなくてはならず、その母も無原罪でなくてはならず、そしてその母も・・以下無限後退してイブとアダムにまで至る。「神はマリアを予定して、堕罪後にもアダムに『無原罪』の肉の一部を残し、マリアにまでその一部が相続されるようにはからった」というような、ファンタスティックな理論もあらわれた。
(『マリアとは誰だったのか』新教出版社Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception等参照)

さて、聖トマス・アクィナスがこの教義に反対していたことは既に述べた。アクィナスは『神学大全』第三部第27問で「マリアの聖化」について取り上げている。第一項で子宮内聖別を肯定したあと、第二項でいわゆる「無原罪懐胎」を否定している。

マリアの聖化は生命活動(animatio)以前に生じたとは考えられない。理由は二つある。
一つ目は、わたしたちが言うところの聖化とは原罪からの浄化を意味するからだ。デュオニシウスが言うように、聖化とは完全なる浄化である。さて、罪は恩寵によってのみ取り除かれ、恩寵の対象とは理性的魂のみである。それゆえ、魂の注入以前において、マリアは聖化されていない。
二つ目は、理性的魂のみが罪の対象であるからだ。魂の注入以前の懐胎した胎児は罪と関係しない。そしてそれゆえ、どういう仕方であれマリアが生命活動以前に聖化されたとしたならば、マリアは原罪の汚れを招かなかったことになる。そうすると、マリアはキリストによる贖罪も救済も必要としなかったことになる。しかしキリストについては「彼は人々を罪からすくう」と書かれているのだ。もしマリアが生命活動以前に聖化されていたなら、それは「キリストはすべての人間の救世主ではない」ということを意味する。(しかし、それはおかしい)それゆえ、マリアはあくまで生命活動の後に聖化されたのである。

Summa Theologica Ⅲ27a2

さすがに精妙を極めるが、アクィナスが攻撃する際に立脚しているのも、肉体の形成ののちの理性的魂の注入という考え方だ。そこで「注入前」(アクィナスのタームによれば「生命活動前」)と「注入後」(「生命活動後」)という区別が生じる。後者はそもそも「無原罪懐胎」を意味しないから、問題は注入前懐胎ということになる。
アクィナスは二つの理由を上げてそれを反駁している。ざっくりその理由を要約する。

①無意味である。
②贖罪の必要性と矛盾する。

①はつまりこういうことだ。魂の注入前ならば、そこにはただの物体としての肉があるのみである。魂が肉と結びついてはじめて原罪に感染するといえるから、それ以前の「聖化」は意味がない。
②については特に説明の要はないだろうが、これこそ無原罪懐胎教義への強力で練り上げられた反駁であり、現在でもそのヴァリエーションが多々見られる。アククィナスはここで、「原罪の普遍性」を「贖罪の必要性の普遍性」へと転化して、「無原罪懐胎」を否定している。実はこの転化にこそ、すべてを解く鍵がある。アクィナスはここで、無原罪懐胎のドグマに向かうぎりぎりの一歩を踏み出しかけている。英訳『神学大全』にはこの「マリアの聖化」問題の直前に訳者による次のような解説がある。アクィナスは遺憾ながら当時の風潮にまどわされて、無原罪懐胎について誤謬に陥った。彼も時代の子だったのだ。しかし、アクィナスの「マリアは贖罪された」ということと「マリアの聖化とは保護の聖化でもあった」という二つの主張は無原罪懐胎教義の基礎となった。(pp2155-2156)

ところで生命活動の「前」・「後」の区別に言及した時に、読者のみなさんには疑問が生じなかっただろうか。生命活動(すなわち魂の肉との合一)「以前」でもなく「以後」でもなく、まさにその合一の「瞬間」に「聖化」されたとすれば? 拍子抜けするかも知れないが、スコトゥスがこの問題を解決できたのは、まさに「瞬間」における「聖化」に気づいたことにある。しかし、そのためには、「原罪」と「贖罪」の概念に対して何らかの位置ずらしがなされねばならない。なぜなら、「無原罪懐胎」を擁護し弁証するということは、

a.「マリアは無原罪で懐胎した」
b.「マリアはキリストによって贖罪された」

という対立する二つの見解を和解(ヘーゲル的に言えば「止揚」)させることだからだ。
こうした弁証の過程は、関心のない人間にとってはまさに「スコラ談義」に見えるだろうが、私はここにこそ「エキサイティングな学」(稲垣良典)「興奮させる学」(マクグラス)である神学の醍醐味があるのだと思う。

(この項つづく)

Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(1)