教皇の不可謬の教導権:5

"The Papacy Lerning Guide"(Catolic Answers)より。

では「不可謬ではない」教えについてはどうか。カトリック信徒はそれらに同意しない自由や、単純に無視する自由があるのだろうか? 答えは否だ。
第二バチカンは明らかに言う、「ローマ教皇の権威ある教導職に対しては、格別な仕方で心と意志による敬虔な従順を示さなければならない。たとえ聖座から(ex cathedra)語っていなくとも」」(Lumen Gentium 25)と。少なくとも、カトリック信徒は、定義されていない特定の教えについて、教会教導権がそれを疑問とする特権があることを認める必要がある。ニューマン枢機卿が示したように、教理は発展するのだ。教皇でさえ、福音を新たな状況に適用する場合の理解には成長がある。しかし、カトリック信徒は、嫌いだからと言って意のままに、不可謬的でない教えを拒否する自由があるわけではない。
教皇は教会教導権の頭である。カトリック信徒は教会教導権は信仰を理解していると仮定せねばならない。第二バチカンが主張している通り、教皇の「最高の教導権を尊敬をもって認め、彼の下す決定を、彼の思いと意向のままに、真摯に支持せねばならない」。では、教皇の思いと意向が何であるかをどのように知るのか? それらは「文書の性質、同じ教理を幾度も繰り返すこと、語り方などから知ることができる」(Lumen Gentium 25)。

不可謬的でない教えについて。不可謬でない教義については、軽視・無視してもかまわない、いやむしろ信じる必要もない。これも(主に信者自身による)よくある誤解である。
教皇不可謬権」は、それ自体以外に何の支えもない、他から孤立した、教皇だけに光を当てたなにか特別な教義なのではない。教会の草創期から普遍的に認識されていた教会教導権と教皇首位権を背景にしており、両者を至高の形で表現している。実際の所、そもそも「教会」とは何かという問題と密接に結びついており、さらに言えば、カトリックカトリック性と不可分離的なものでもあるのだ。

(この項了)

教皇の不可謬の教導権:4
教皇の不可謬の教導権:3
教皇の不可謬の教導権:2
教皇の不可謬の教導権:1