教皇の不可謬の教導権:4

"The Papacy Lerning Guide"(Catholic Answers)より。

不可謬権が何であるかは明らかである。不幸なことに、ときおり人々は、不可謬権をそうではないものと混同している。
第一に、不可謬権はしばしば霊感と混同される。聖書は霊感を受けている。なぜなら筆記者は神の息吹を受けているからだ。神こそが主要な作者なのだ(CCC 105-108)。霊感は聖霊による指令の行為である。聖書作者の心や環境を利用し、書かれるものを指導する。それに対して不可謬権は、誤謬に陥ることを防ぐ保護のカニズムである。それは間違ったことを教えないようにするが、行為を指示するわけではない。これは重要な違いである。
神が教皇の教えに霊感を与えているなどと、教会は主張していない。教皇は適切なタイミングで教えるとか、彼の定義は必要なことすべてを語っているとか、彼の意味するところは明白であるとか、彼の言うことは不適切なことではないとさえ、主張していない。不可謬権が主張しているのはただ、聖霊は信仰と道徳に関して教会を誤りから保護するということなのである。
第二に、不可謬権は教皇不可罪性(罪を犯しえないこと)を意味しない。ペトロは自らを罪ある者と呼び(ルカ5:8)、イエスを否定するという罪を犯した。しかしイエスはペトロに不可謬の教導職を授け、聖霊が彼をすべての真理に導くようにした。教皇は罪なき者ではない。彼は定期的に告白する。不可謬権のカリスマは教皇を罪から保護するのではなく、彼が何かを定義決定する際に誤りを教えることのないようにするだけである。
第三に、不可謬権は教皇の言うことなすことすべてが不可謬だということではない。不可謬権の定義は特定の条件を前提とする。教皇は、信仰と道徳の問題について定義決定するために、彼の全き教皇職において明示的に語る必要がある。神学者として、あるいは司教として語っても十分ではない。西方教会総司教としてでさえそうである。彼は強制なしに、教会全体の頭として、公式に語らねばならない。

ある語の定義は否定的にも言いうる。つまり、何でないかを語ることで、その輪郭が明瞭になる。ここでは、不可謬権についてよくある三つの誤解を取り上げてそうしている。本当に驚くほどよくある誤解(しかもその誤解に基づいて教皇不可謬権を批判する!)なので、初めて知る方はくれぐれもご注意願いたい。

(この項つづく)

教皇の不可謬の教導権:3
教皇の不可謬の教導権:2
教皇の不可謬の教導権:1