ベネディクト16世 ヨゼフ・ラツィンガー『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』★★

kanedaitsuki2006-10-26

近刊のこちらは77年ミュンヘンフライジングの司教になるまでの自伝。ナチスの台頭、戦後の混乱、第二バチカン公会議前後のどたばたなど、まさに激動の時代を生きてきたわけだ。時代の流れに、そして大学政治、教会政治に揉まれてきたことがわかる。司教になるまでで筆を折っているが、本人自身司牧的役割に向かないと思い、学者として大成することを望んでいたこともあって、内心忸怩たるものがあっただろう。
学究者としての歩みでは、古臭いスコラ的手続きにまみれた重々しさから解放され、自由神学による新しい生き生きとした思潮が主流になっていく中で、自らの神学を育んでいたことがわかる。ラーナーはともかく、極左のキュンクとも親交を結んでいたというのも、当時の雰囲気を伝えていて面白い。個人的には、ボナヴェントゥラの読解から得た、「啓示」の新しい解釈に興味を引かれた。
近々教皇庁よりトリエントミサの復活に関する公文書が出されるらしい。暗示的なことだが、パウロ六世による古い典書の禁止に触れた上で、以下のように語っているのが見える。

(トリエント公会議では)いままでの、そして、いままで合法的であると見做されてきたミサ典書の使用が禁止されたわけではなかったのです。古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。

『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』、pp162-163

歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。
これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。

同上、pp163-164

私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(esti Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。

同上、p164

驚くほどのことではないかも知れないが、これはピオ十世会(ルフェーブル派)の見解とそっくりだ。実際、ピオ十世会に属する小野田神父は早速ブログで肯定的にこの箇所を紹介している。
「DREDIDIMUS CARITATI」



さて、この邦訳書には学者時代のラッチンガーに親しい指導を受けたという里野泰昭の50pに及ぶ思い出話と解説とが併載してある。しかしその説明には首をかしげるところが多いといわざるをえない。たとえばしょっぱなラッチンガーの反スコラ学的教授法について説く折にこんなことを言っている。

決定された教義は、これらの論争の結論として決定的なものであり、それがとり消されるということはありません(その通り!)が、それが最終的、究極的な結論というのではなく(?)、議論のパースペクティヴが変われば(議論は終わったんじゃなかったの??)、それはさらに発展していく可能性を含んでいるものであるのです(なんじゃそりゃ???)。

同上、p195

続きはもっと凄まじい。

教義とはそれを信じなければならない金科玉条、ありがたいお題目、あるいはまた、それを信じなければ異端とされる恐ろしい踏絵ではなく、信仰を正しく理解するための助けであり、有効な手がかりなのです。

同上、p195

いやしくもプロフェッショナルである人物から、教義についてこれほど反カトリック的な出たらめが飛び出すとは前代未聞である。チェックを入れたはずの大司教様の目は節穴か。

厳密な意味での教義とは、(啓示による)聖なる信仰の対象であり、(教会の不可謬の決定による)カトリックの信仰の対象である。(・・・)洗礼者が教義を故意に否定もしくは疑うならば、異端の罪となり(教会法1325)、自動的に破門となる(教会法2314)。

Ludwich Ott "Fundamentals of Catholic Dogma",p5

上掲書の教会法は旧のそれであるが、1983年制定の新教会法でもほぼ同様の規定は残っている。実際The Ratzinger Report(RR)でラッチンガーは新教会法(751、1364)を引いて公会議以後のこんにちの教会でさえ「異端はなお存在し、共同体を異端から守る方法が必要です」(RR,p25)と述べているのだ。守る方法とはもちろん「破門」も含まれる。

今日でさえ異端がその罪によって陥ってしまう破門は、矯正と考えられるべきです。すなわち破門は彼を罰するのではなく、むしろ彼を正し、改良するためにあるのです。

RR,p25

かような発言を読んで度肝を抜かれるひとは抜かれるがよい。しかし、実際こう言っているのだからいかんせん。いずれにせよ、里野が陥っている誤謬は覆い隠すべくもない。
ラッチンガーが保守主義かどうかという問題をめぐって述べている「解放の神学」についての見解もかなり怪しい。

解放の神学とは、六〇年代にラテンアメリカにおいて発展した新しい形の神学で、ラテンアメリカにおける貧困の問題と真正面から向きあった神学です。イエスの福音が貧しい者、抑圧された者、差別された者に向けられていることを受けて、彼らとの連帯において、彼らの抑圧と差別の状況からの解放を求めていく実践的な神学です。ラツィンガーカトリックの司教として、そのようなものとしての解放の神学に反対しているということは考えられないことです。

『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』、pp255-256

ラツィンガーが解放の神学を批判し、これに否定的な態度をとるのは、解放の神学がマルクス主義的なイデオロギーをとり入れ、解放のための暴力を是認するかぎりにおいてなのです。

同上、p257

さてRRでは、終わりの方で「解放の神学」をとりあげている。インタビュアーは、わざわざこの問題についてのラッチンガーの予備的考察を全文(12pほど)引用している。こうした長々とした文章の引用はこの本の中でこの箇所だけである。
真っ先に指摘しておくべきであるが、ラッチンガーは解放の神学を「解放のための暴力を是認するかぎりにおいて」批判しているのではない。はっきりとその神学的側面を批判している。本質的に「科学」(マルクス主義、新批評etc・・・)信奉者である解放の神学は、「神の国」を地上に実現する幻想を抱いて、聖書と教会の信仰をねじ曲げて解釈しているというわけだ。解放の神学、また厳密な意味では解放の神学が存在しない領域にまで及んでいるその影響力は、「教会の信仰に対する根本的な脅威を形成している」(RR,175)。
ラッチンガーは、ポルノグラフィやドラックが蔓延する現代社会の風潮を「悪魔的」と評したうえで、しかしそれよりもなおマルクス主義の方が悪賢く、野心的であるとまで言っている。

マルクス主義イデオロギーユダヤキリスト教的伝統を実践的に使い、それを神なき預言者の運動に改変しています。人々の宗教的情熱は政治的目的の道具にされ、単なる世俗的希望に向けさせられています。キリスト教徒の永遠の命への熱望は逆立ちさせられたに等しいのです。聖書の伝統のこうした悪用によって政治的革命の使者たちは、それこそがキリストの目的だったのだと多くの信者をだましています。

RR,p188

ほかにも気になる箇所は多々あるが、読者の目で実際に確かめてほしい。特別に思いいれがあるならともかく、少なくとも非信者までが好んで読む本ではないけど。

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