三土修平『靖国問題の原点』★★★★

kanedaitsuki2005-10-23

賛成派を「謀略史観」反対派を「せっかく史観」とし、占領下における靖国神社改革の歴史を検証しながら、両者に批判の目を向けている(しかし、前者はともかく後者のネーミングセンスはいかがなものか)。
「謀略史観」は靖国神社の私法人化は占領軍による強制であるとする立場だが、実際には宗教色を拝した「公共」施設に変わる余地があったにもかかわらず、靖国神社側がそれを望まず、宗教色を有したうえでの私法人化を選んだのだと指摘している。つまり、政治的駆け引きのすえの妥協であったというわけだ。たしかにいきすぎた謀略史観をとるのは適切ではないが、私法人化がまったくの自由選択によるものではない点では、占領下という特殊条件を配慮するのはおかしくはなかろうと私は思うが。
「せっかく史観」は靖国神社の私法人化をよき改革と見て、その改革の成果を守るために、靖国神社の公共的役割を否定し、公共団体の関与を批判する立場だ。三土はこの史観の弱点をいくつかあげている。まず、この史観を持つ反対派は靖国参拝否定論の根拠として「政教分離原則」を持ち出す。そのために、本音では政治的イデオロギー装置にすぎないと思っているにもかかわらず、靖国神社の「宗教性」を強調する結果になっている。法廷戦術としてはただしいところがあるが、宗教であると認めることで、「信教の自由」という武器を敵側である賛成派に手渡してしまってもいる。また、反対派は参拝を過度に否定することで、戦没者に対する公的慰霊は必要であるとする日本国民のなかに少なくない穏健な勢力の心を汲み取ることができなくなってもいる。三土は、「せっかく史観」は改革はすでに済んでいるとすることで、さらなる改革へ向かう運動にならず、逆にいきづまっていると見ている。
ここまでくると、では三土自身の方向性は、公的慰霊を認めた「無宗教の公共慰霊施設」の建設にあるのかと思ってしまうが、この点では三土は国民による今後の十分な議論によるとするばかりで、結論を差し控えている。
肝心の靖国参拝に対する三土の態度は否定的である。だがその論拠は、ポツダム宣言受諾を拒否している靖国神社に首相がかかわるのはおかしい、というもので、論理の飛躍がある(少なくとも私にはまったく理解できない)。要は、靖国参拝することは首相が「ポツダム宣言」を拒否することになる、と言いたいようであるが、これはいくらなんでも無理な理屈であろう(しかも中韓のものいいとそっくりなのはいかんせん)。たとえば教会で式を挙げれば、即独り子イエスを救世主と認めることになるのか? ならない。靖国神社イデオロギーがどうであるかということと、そこに参拝するという様式は、さしあたっては別個のものと見るよりなく、これは合憲判決における「社会的習俗」の範囲内とする判断にも即している。
そういうわけで、私的には異論も多いが、これまで誰も明確に指摘してこなかった卓見に満ちており、賛成派もぜひとも読んでおくべき貴重な文献だと思う。ちなみに著者はこの問題の専門家ではなく、経済学者であるが、その社会学的スタイルが左右のイデオロギー立場から一歩離れてこの問題を見ることに適しているということはあろう。

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