三島と天皇 3

「文化防衛論」において物議をかもしそうなのは末尾のあたりの文章であろう。

菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉もまた、文化概念としての天皇から与えられなければならない。現行憲法下法理的に可能な方法だと思われるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、軍の儀仗を受けられることはもちろん、聯隊旗も直接下賜されなければならない。
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時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかもしれない。そのときは、代議制民主主義を通じて平和裡に、「天皇制下の共産政体」さえ成立しかねないのである。およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、今さら言うまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もっとも狡猾な政治的象徴として利用されるか、あるいは利用されたのちに捨てられるか、その運命は決まっている。このような事態を防ぐためには、天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない。

「文化防衛論」『裸体と衣装』新潮文庫、1983年、p320

なぜ全体主義に抗するために天皇と軍隊が直結しなければならないか、あまり判然としているとはいえない。
ただ、天皇が政治体制を超越した存在であり、文化を防衛するものとしての軍隊は、時々の政治に拘泥することなく、永続的な価値に奉仕すべき存在であると三島が観念していることはわかる。ここでの「永続的な価値」は、三島の場合はあくまで三島的に理解せなばなるまいが。
ところで、大日本帝国憲法における「統帥権」の独立とは、もともとこのような考えの元に生じた。現にある個別の政権に服するならば、軍隊はいわば党利党略に翻弄され、党派の私軍に堕してしまう。そこで、天皇に直結させることで、軍隊に公的な地位を付与したのだ。だから、天皇に直属する軍隊という考えが見た目ほど怪しいものではない、というのは確かである。のちにこの「統帥権」の独立が、とくに「統帥権干犯」という北一輝の天才的な解釈によって、もともとの志向からは正反対の方向に捻じ曲げられていったのは、よく知られている通りだが。
三島の考えと離れてしまうが、これは立憲君主政体における、権威と権力の分離という発想に落ち着く。その時々の政府は転変する現在としての国家を体現し、他方、世襲としての君主(天皇)は、永続するものとしての国家を表す。三島の混乱は国家のイデアとザインという区別でなく、その区別を天皇にのみ集中していることからくる。現実に継承されてきた皇位天皇の現存在自体が国家のイデアなのである天皇はなぜ世襲でなければいけないのか。誰でも天皇になれるのならば、皇位は決して国家の永続性の側面を象徴しなくなってしまうからだ。
ちなみにいえばこの点で、現行憲法第一条は国体破壊的である。天皇の地位は決して国民の総意に基づくものではない。それでは天皇は大統領的なものになってしまう。明らかに第二条の天皇の地位は世襲、という考えと矛盾してもいる。第一条は天皇は日本国を代表する国家元首である」に改正すべきである。
三島の「変革の原理としての天皇」という理論は、たしかに魅力的なところもあるが、もともと戦前の国家社会主義者の思想の焼き直しである。また、あまりに政治的側面を軽視していることから、現実の天皇システムとも合致しない混乱したものになっている、と今のところ私は考えている。三島はあえて「天皇」という名を使っているのであって、実際には別のことを言いたかったのだろうか。