佐藤卓己『言論統制』

半分ほど読んでほったらかしていたが、また一から読み始めた。まだ通読しきってないが、すこぶる面白い。
戦前の軍部による言論弾圧の象徴として戦後さんざん糾弾された鈴木庫三情報官について、彼の日記や著書を丹念に精読して昭和史の裏面に光を当てた見事な本である。
本編とは直接関係ないが、以下の部分などには非常に共感するところがある。

大衆にとって「民主主義」とは、政治への参加感覚を意味する。「いま自分もこの政治に参加している」、そう感じることこそが、民主主義に他ならない。それは「大政に翼賛している感覚」といっても言い過ぎではない。市民(ブルジョア)的な制限選挙体制の中で政治への参加から排除されてきた農民や労働者、すなわち大衆に、「国民」として政治への参加を認めたのが、一九二五年の普通選挙法である。だが、大正デモクラシー体制でなおも政治参加から取り残された大衆が、女性であり二五歳以下の青年であり、何よりも「世論に惑わず政治に拘らず」(軍人勅諭)とされた軍人であったことにも注目すべきだろう。ファシズム運動の担い手が「愛国婦人会」「少国民」「青年将校」であったとすればなおさらである。ファシズムもまた参加政治の一形態であり、大衆の世論形成への参加欲求においてファシズムとデモクラシーに変わるところはないのである。
この意味で、大正と昭和、デモクラシーとファシズムの間に断絶などは存在しない。「政治の大衆化」と「大衆の国民化」が進んだだけである。

p131

大正と昭和を明暗のコントラストで描こうとする「昭和暗黒史観」への鋭い批判となっている。昭和前期が軍国主義天皇ファシズムの暗闇の時代である、という認識は一面の真理ではあろうが、歴史がそんなに単純な図式でおさまるはずもない。
1924年アメリカで絶対的排日移民法が施行され、日本の対米感情はいっぺんに悪化する。あたりまえのことながら昔から「鬼畜米国」であったわけはなく、明治以来日本にとって米国はまさに民主主義先進国であり日本の近代化の模範であった。その理想的国家とばかり思われてきた国が、差別感情むき出しのエゴイスティックな行動に出たのだから、裏切られた感を強くしたものも多数いよう。
そういう時代の流れを念頭にして1925年の普選法公布からの歴史を考えなければ、軍部の独走をむしろ一般大衆が後押しした事実が見えなくなってしまうのだ。
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