チェスと戦争

「水野優のブログ:チェス」6月11日の記事が興味をひいた。
http://yumizuno.seesaa.net/article/4280504.html
チェス用語の翻訳にからめて、英語と日本語における文化的ギャップに触れている。

 英語の表現は概して大袈裟だと言われる。その中には突然前触れもなく現れる比喩も含まれる。話し言葉より書き言葉になるとさらに顕著で、それ自体が戦争や軍隊を連想するチェスでは、全く違和感なく軍事用語が頻出する。
 Reuben Fineのようなちょっと昔の人は特にそうで、最初に私が(ひどい)訳を付けた"Basic Chess Endings"では、outpostや今はサッカーで有名なarsenal、maneuverでさえこのとき初めて知ったのだが、軍事用語のオンパレードだった。

 これらをそのまま日本語に移し替えると内容は分かっても、文化的ギャップが甚だしい。小手先では「〜のような」を付けて直喩に変えてしまう手もあるが、それでは別の意味で著者の意図をねじ曲げることになるかもしれない。
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 具体的には「ポーンを進める」と「ポーンが前進する」の違いを意識するといったことである。後者は英語お得意の無生物主語構文とも考えられる。このようにどちらでもさほど印象の変わらない表現をコントロールして全体のバランスを取ることが一つの解決になると思う。
 平均的な日本チェス愛好家は、どれほどチェスを軍隊等と重ね合わせて考えているのだろう。私などは、やればやるほど幾何学的な面しか目に入らなくなっていく気がする。たとえ話は初心者や年少者に有効とはいえ、将棋で香車が竹槍部隊にたとえられたりすることはあるのだろうか。

たしかにチェスのみならず、将棋でも、日本人はあまり軍隊に関連づけて思考していないような気がする。もともとは戦争のシミュレーションであるというのにだ。近年、「〜戦法」ではなく「〜システム」なる言い方(矢倉森下システムあたりからか)があらわれるようになったが、これも非武装化(笑)の一環とも見える。
「将棋で香車が竹槍部隊にたとえられたりすることはあるのだろうか」
「竹槍部隊」はともかく、「やり」と俗称されてはいる。しかし、いまの子供は槍を具象的にイメージはしないだろうな。私もたんなる呼び方としかとらえてなかった。
上の文章でもっとも共感したのが「やればやるほど幾何学的な面しか目に入らなくなっていく」の部分で、あれほど具象的な駒ながら、抽象的な記号にしか実際思えない。だいいち、城(ルーク)が動くのはおかしいだろ。「ハウルの動く城」じゃあるまいし(笑