チェス本

洋もの(笑)をひもといて驚くのは、一局におけるそれぞれの局面での膨大な変化が羅列されていること。圧倒される。実際に出現した手順の底に、こうしたさまざまな変化の潜んでいるところに、ソシュールの創始した構造言語学との類似性なんかを、いとうせいこうなどは感じているのであろう。
ほかに思ったのは、指し手の決定のために局面を判断しなければならないわけだが、その際適切な概念の創出に非常に心を配っているということ。こういう「分析」というものへの執念というのは、いかにも西洋的思考という気がするなあ。というのは、チェス邦書では扱われないか、扱っても軽く流すような概念がぽんぽん出てくるのだ。おそらくそこを詳しく解説しないと、チェスの深い理解は不可能である。
もちろん、こうした専門的な概念というものは、ポストモダン思想にとびつく連中にありがちなように、単に知的ファッションとして扱われる危険性がある。チェスの場合は特殊な環境だから、そういう「知の欺瞞」的使用はまずありえないけど、チェスになじみのない(ということは、すなわち西洋的思考法になじみのない)日本人にとって、こうした概念の使用が障害になっているかもしれない。