教会の外に救いなし

以前引いた、教会の外の人も「永遠の救いに達することができる」とする教会憲章第2章16項の文章であるが、注として検邪聖省によるボストン大司教にあてた書簡を参照せよ、とある。そこで、デンツィンガー編『カトリック教会文書資料集』の当該箇所(DS3866-3873)を手短に検討してみよう。
この書簡(「ボストンの大司教にあてた検邪聖省の書簡(1949年8月8日)」)は、「教会の外に救いなし」という格言を、「すべての非カトリック者は永遠の救いから除外される」というように厳格に解した一部のグループにあてたものである。
書簡では、伝統に従ってまず救いにとっての教会の必要性を説いている。

3868 救い主は、すべての人が教会に入ることを命じただけではなく、教会なしには、誰ひとりとして天の栄光の国に入ることができない救いの手段として教会を設立したのである。

こののち、一見これと相反する主張がつづく。

3869 神は無限の慈愛をもって、人々の救いの助けとして、神が制定したことだけを究極目的に達するために絶対必要なものとせず、ある特定の事情においては、願望だけで救いに達することができるようにはからったのである。

これを読むかぎり、なるほど依然として「救いに達することができる」という可能性に言及されているだけとはいえ、非カトリック者の救いの可能性を明示的に述べていると解せる。ただし、やはり「ある特定の事情においては」という前提条件が附されていることに注意。
近年公布された教理省宣言『ドミヌス・イエズス』のモチーフにもなっているが、要すれば、ここで考えられているのは「教会」の定義(あるいは範囲)の問題だといえる。
文章は以下のように続く。

3871 (…)教会は救いのための一般的な助けである。永遠の救いを得るためには、実際に教会の一員として教会に合体することが常に要求されるのではなく、少なくとも願望によって教会に所属することが要求される。この願望は、洗礼志願者の場合のように、常に明示的であることが要求されるのではなく、不可抗的無知の場合のように、暗に含まれた願望を神は認める。なぜなら、神の意志に自分の意志を合わせようと努める人間の善意の中には、永遠の救いを得たいという願望がそれとなく含まれているからである。

さしあたり言っておくべきは、教会憲章で述べられた非カトリック者の救いの可能性は、すでに1949年のこの書簡でよりくわしく述べられていること(しかも異端思想を査問する部署からの!)だ。そうした考え方自体は、第2バチカン以前からあり、むしろカトリックの伝統的思考にかなっているわけだ。それゆえ、こういう考え方を持ち上げて保守派対改革派などという構図を描くのは、偽の対立をつくりだしているに過ぎない。
さて、上の文章もきちんと読み下すに、救いにとっての教会の一般的必要性はやはりあるのだ、と言わざるをえない。「不可坑的無知の場合のように、暗に含まれた願望」という措辞を見よ。これは、「教会について現に知らないのだが、もし知っていたとしたら、すすんで所属したであろう」ような状態を指す。そういう人も、ある意味では教会の内にいる、というわけだ。あくまである意味で。実際、つづく文章(3871)では、実際に教会に属する者と願望によって属する者を区別し、後者は「永遠の救いについて不確実な状態にある」としている。
そういうわけで、当然のことながら、「教会の外に救いなし」の厳格な解釈を排する一方、異教徒も各々の信仰を保ったまま救われるという思想も退けている。

3872 教皇はこのような言葉をもって、暗に含まれた願望だけによって教会に所属している者すべてを永遠の救いから締出す者を非難している。教皇はまた、人は、どの宗教によっても同じように救われるという間違った説を支持する人々をも非難している。

少なくとも次のことは確実にいえる。ローマ・カトリックの教義について「万人救済説」的解釈をする人間は、完全な●チガイである。