教会の外に救いなし 2

前項で引いた書簡の注で、さらに他の書簡への参照があるので、少々長くなるが、以下該当箇所(DS2865-2867)を全文引用してみる(「イタリアの司教にあてた回勅」(1883年8月10日))。

2865 誤った説に従って生活し、カトリックの真の信仰を持たない者も永遠の生命に達することができると主張する一部のカトリック信者の大きなあやまちを、ここで再び取上げ、非難しなければならない。この説はカトリックの教えに大きく反するものである。
2866 私も、あなたたちも次のことを良く知っている。すなわち、やむを得ない事情によってカトリックの聖なる宗教を知らずにいる者が、神がすべての人の心に刻みつけた自然法とその道徳律を忠実に守り、神に従う用意があり、正しく生きるならば、神の光と恩恵との働きによって、永遠の生命に達することができる。すべての人の心と魂、考えと習性を知っている神は、その大きな好意と憐みによって、意識して罪を犯さない人を永遠の苦しみによって罰することはない。
2867 しかし、カトリック教会の外において誰一人として救われないというカトリックの教理は明らかである。そのため、この教会の権威に反対し、この教会とペトロの後継者であり救い主によってぶどう畑の管理をまかせられている教皇の権威と決定に頑固に反対する者は、永遠の救いを得ることはできない

というわけで、非カトリック者の救いの可能性についての明示的言及は、1883年まではさかのぼれることがわかった。第2バチカン「教会憲章」の件の主張は、すでにカトリック内部にある思考の再確認に過ぎない。
だんだんからくりが見えてきたが、非カトリック者の救いの可能性は、実際にはつねに救いにとっての教会の必要性(「教会の外に救いなし」)の下で、その補足として語られていることに気づく。そのパラフレーズに過ぎぬ第2バチカン「教会憲章」もしかり。どうも、一部の輩が前後の文脈を無視して2866の主張のみを声高に語り、カトリックの教義を歪曲しているのがほんとうの事情のようだ。異端とは正統の部分否定である、という私の命題は、あいかわらず真である。

2916 人間は、どの宗教を信奉しても永遠の救いの道を見出し、また永遠の救いを獲得することができる。
2917 キリストの真の教会に属していないすべての人々が、永遠に救われることを少なくとも期待しなければならない。

以上の主張は、1864年大勅書シラバス近代主義者の謬説表)」において排斥されている。宗教無差別主義、万人救済説がはっきり退けられているのがわかる。