東天バカまるだし

東天さんは「天の川」12月分30日分で
http://d.hatena.ne.jp/touten/20041230/
次のように書いている。

この講座の講師は毎回、救いに関して

「第二バチカン公会議以降、キリスト教を知らない人でも、また、他の宗教の人でも、誠実に歩んでいれば神の救いがある、に変わった」

ことを、口にされています。

ここでの私の、資料に基づいた執拗な反駁を受けて、こっそり「誠実に歩んでいれば」という措辞を付加している。姑息だねえ。しかし、「神の救いがある」は不正確で、私の数々の引用からすれば少なくとも「ありうる」でなくてはならない。かりに非カトリック者が救われるとしても「永遠の救い」については不確実性があるのだ。だから、実際にカトリック教会に属するものと、願望として属するものは区別されている。この点は「教会の外に救いなし 2」http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20041229/を参照。バカ講師がなんと言っているか知らないが、第2バチカン公会議公文書「教会憲章」でも、教会を知っていながらそこに属さないひとは救われない、と明言されていることを忘れてはならない。
加えるに、前項で一次文献をあげて示しているように、非カトリック者の救いの可能性はなにも第2バチカン公会議を待つまでもなく、第2バチ以前からあった、むしろカトリックの伝統的な思考なのである。だから「変わった」などというのは間違い。東天パー子も、そのバカ先生も教義史を勉強しなおしなさい。
最低なのは「教会の外に救いなし」という教義が「廃止」された、と堂々と出鱈目を述べながら(http://d.hatena.ne.jp/touten/20041208)、それについての私の反論にはまったく無視を決め込んでいることだ。いったい、この言葉への責任感のなさはどうしたもんか!

さて、勢いにのってこの東天パー子はバカまる出しの見解を披露している。

だって、

聖霊がすべてのひとに働きうるのなら、聖体もカトリック信者だけではなく、すべてのひとに振舞うべきでしょ。

すべてのカトリック教会がけちなわけではありません。カトリック信者でなくても聖体いただけるカトリック教会もありますよ。でも大部分ではカトリック信者しかもらえない。

主任司祭の霊性の問題でしょうね。

パー子さんの論理性のなさにはほとほとあきれるが、なんで「聖霊がすべてのひとに働きうる」(この「うる」は不要だろう)なら、聖体を「すべてのひとに振舞うべき」になるんだ? 前後がぜんぜんつながってないじゃん。
たとえば、
「重力がすべてのひとに働きうるなら、すべてのひとの頭に石を落とすべきでしょ」
といったら、「あなたはくるくるぱーですか」とかえされるのがオチだろ(笑
クリスチャンにとって御聖体がどういう意味を持つのか、この自称クリスチャンはさっぱりわかってないんだな。どうもひとの霊性の低さをやたらヒステリックにまくしたてているくせに、本人そうとう貧しい霊性しか持ち合わせていないらしい。南無さん。
第一コリント書11章27-29節にはこうある。

だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血を犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである

東天パー子は、聖体拝領を、炊き出しボランティアかなんかとごっちゃにしてるんじゃないだろうな。まあ、この霊性の低いバカ女には、パンにおける主の臨在を感じることなどできぬのだろう。こんな霊性の低いバカ女にまで聖体をふるまうのは、まさに豚に真珠。
それと、聖体を非カトリック者(正確に言うとカトリック未洗礼者も含むはずだが)にふるまわないのは、別に司祭の霊性が低いからではない。というか、この問題については司祭の霊性とは関係がない。
というのもカトリックではopus operatum(事効説)を採用しているから、司祭の精神性うんぬんとは無関係に、有効に叙階された司祭は、一定の手順に従って儀式を行なえば、その言葉によってパンをからだに変えることができるのだ。極端に言えば、ロリコンのど変態だろうが、異端思想を持っていようが、有効に叙階された司祭なら、その聖体拝領も有効なのである。これは東天パー子がプロの人効説しか知らない証拠。
聖体論は非常に難解だからせめはしないが、他の思想を批判するときは、少しくらい調べてからものを言えよな。