岩下壮一『カトリックの信仰』より

私は東天さんの「体験の絶対化」を批判しているが、その文脈において、カトリック学者岩下壮一師の次の言葉は非常に示唆するところが多いと思う。

プロテスタントカトリックが個人の宗教体験を宗教的真理の規範とすることに反対するのゆえをもって、しばしば体験そのものの価値をも否定するかのごとく誤解する。そうして形式的信条を強要するのだとか、信条を観念的に承認するに止るとか言う。我々は宗教的真理が体験せられ、味得せられ、個人がその内心の事実から真理についての確信を得られるのを否定しているのではなく、ただかかる種類の心証は、その本人には極めて有力な、ある場合には毫末の疑念をすら挟む余地なきものであろうとも、それをもって他人に臨むのは、心証の性質上無理であると言うに止る。
岩下壮一『カトリックの信仰』講談社学術文庫、p708

心証は心証それ自体だけでは、他人に真理をあかすことはできない。かりにそうしようとすれば、結局は自分の内面の真理なるものを他人に強要することになってしまう。こちらはそれを受け入れるか受け入れないかしか、選択の余地がないわけだ。東天さんは、真であると自分が信じるものについて、その根拠を明確にし、適切な推論を通じて他人を説得しようとする努力を一切放棄し、ただただその確信を他人が共有することを望んでいる。それがいかに無理な願いなのかを、岩下師の言葉を熟読吟味して体得してほしい。