俳句は何をやってもいい

 11月19日の記事「EASY遍路の記(第11番札所 藤井寺)」の拙句「冬時雨われも一人の遍路なる 一輝」について、「時雨」は冬の季語だから「冬」をつけるのはおかしい、というご指摘があった。私は本格的に俳句をはじめてからかれこれ10年にはなる。その方も私の俳句歴をよくご存知のはずなのに、俳句のイロハをわざわざ教えてくださるのだ。ありがたい話である。
 さしあたりこの句の良し悪しは置いておくが、私が「冬時雨」にしたのには明確な理由がある。そもそもこの句には「遍路」という別の季語があり、すでにして「季重なり」というルール違反をおかしている(なぜかそちらの指摘はなかった)。四国に住んでいる人間だからということもあるだろうが、私には「遍路」に季感をあまり持たないが、いちおう春の季語に分類されている。また、「時雨」の方がやや季感が強いものの、通年的であり、「遍路」との季感の度合いの差はそんなに大きくはない。そこで、私には「遍路」の季語性を強く否定したい意識が働いて、単に「時雨」ではなく「冬時雨」にした次第。
 もちろん、こんなことを実際に理屈立てた上で作句したわけではなく、感覚だけで「この場合は冬時雨」とほとんど一瞬で「冬時雨」を選択している。しかし、俳句感覚の背後には、きちんと見えない理屈が働いている。それを開示すれば上記のようになるのである。
 厳密なルール通りにのっとれば、たとえば「しぐるるやわれも一人の行者なる」とでもなろうか。この方がこなれた感じがするにはするが、遍路記からは離れてしまうし、だいいち、今の私の目にはつまらない句に見える。どうしても「遍路」という言葉はとっておきたい。
 遍路記では私が団体遍路を小馬鹿にしているように読めるかも知れないが、私もまた自動車のつなぎ遍路でしかなく、大した違いはない。遍路のコスプレをした「なんちゃってお遍路さん」に過ぎないのだ。そういう諧謔の意識もこの句には込めている。
 ところで、タイトルにある通り、「俳句は何をやってもいい」のだが、これはあくまで俳句の密教。「俳句にはルールがある」は顕教。はじめたばかりの人は顕教に従うべきだ。私自身はじめた当初は、「季重なり」はもちろん、字余り字足らずなど一切避けていた。一度はルールを厳格に守る時期がなければ、いつまでたっても俳句の型が身につかない。俳句の型が身につかなければ、高い所には行けない。