空を量子力学で説明できるわけがない。
芥川賞作家であり、臨済宗僧侶でもある玄侑宗久という方が般若心経入門書を上梓し、非常に売れているようである。しかし、その内容は首をかしげたくなるものという他ない。たとえば、以下のような記述がある。
「空」のもう一つの側面は「不増不減」です。
「増さず、しかも減らない」というのですが、この見方ができるためにはもう一度、「空」が全体性であることを認識していただく必要があります。
関わりあい、変化しつづける全体性として現象を見れば、またしてもアインシュタインが云った言葉「宇宙の総エネルギー量は常に一定」という原理に戻ることになります。
たとえばコップの水が減ったとしましょう。私たちはどうしても「減った」と思うわけですが、それは誰かが飲んだのならその人の胃を通り、今頃は大腸あたりで吸収されていることでしょう。また蒸発して「減った」のなら、水蒸気に形を変えたに過ぎません。やがては青空に浮かぶ雲の一部にもなるのでしょうか。
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いわば大脳皮質が「色」を求める欲求に素直に従っているのが、西洋的な「科学」なのかもしれません。
インドの人々はとっくの昔にそれを諦め、「空」という様態を発見したと云えるでしょう。物質を粒子の総合体として見るのではなく、あくまでもエネルギーに満たされた全体の中のある種の凝集として捉えたということです。「空」という考え方は、そういう意味でも画期的だったのです。
量子力学では物質のミクロの様態を、「粒子であり、また波である」とします。測定の仕方でどちらの結果も得られるというわけですが、端的に、それが「色」と「空」なのだと考えても、基本的に間違いでないと思います。
玄侑宗久『現代語訳 般若心経』、ちくま新書、2006年、pp.71-77
「空」を「全体性」として、「エネルギー一定の法則」を用いて説明しているのだが、これで納得できるだろうか? 不思議なことに、アマゾンレビューを見ると、こういうちんぷんかんぷんの解説が「わかりやすい」と好評なのだ。
よくよく考えていただきたいが、この「エネルギー一定の法則」の比喩は、物質一般の意に解した上での「色」にはかろうじて妥当するかも知れないが、五蘊の残り、受想行識にはあてはまりそうにない。これすべて精神活動の一種だからだ。しかし、「受想行識亦復如是」である。「色」にあてはまることは「受想行識」にもあてはまらなければならない。あてはまらないのであれば、そもそも「エネルギー一定の法則」を持ち出した「空」の説明は、まったく的外れだということだ。
量子力学の比喩も同様である。玄侑によれば、「空」は「波」なのだそうだ。それゆえ、「色は波である」。他の蘊も同じなのだから、「受は波である」「想は波である」「行は波である」「識は波である」・・・。まったくわけわからん。
アマゾンレビュアーの多くがそう信じているようだが、こうした生噛りの物理学などを持ち出して「般若心経」を解説するのは、玄侑宗久が最初ではない。宮坂宥洪はすでに10年以上前に、こうした「物理的事実」は仏教には無縁として、物理学によるアナロジーを批判している。
不生不滅
この段の説明にあたって、多くの心経解説者が、エネルギー不変の法則などを持ち出して科学的に「不生」にして「不滅」な事例を示そうとするのは滑稽である。それはまるで仏教の基本教理である「諸行無常」を懸命に反証しているようにみえる。
再度繰り返すが、ダルマを「存在する事物」と解釈するのは誤りである。この解釈はほとんど常識化しているように見受けられるが、存在するモノならば、それはどこに存在するのかと問われよう。そうすると、それは――仏教の立場からすると――たちまち実在論に堕す。少なくとも仏教は外界に存在するものを問題にしていない。だから物理法則がどうだということも関係ない。あくまで瞑想のプロセスにおいて観察された自己の経験内容を構成する要素のことを「法」と呼び、その主要素として観察された五蘊について、「空相」とか「不生不滅」というヴィジョンを示しているのである。
空性体験のもとでの諸法が「不生不滅、云々」ということであって、いわばただの諸法については、生じ、滅し、増えたり、減ったりする(ように見える)はずである。だから縁起法頌には「諸法は因によって生じ、因によって滅す」と説かれていた。では、空相のヴィジョンを介すれば、なぜその逆になるのか。その論理構造をしいて分析すれば次のようなことである。
別に逆になっているというわけでもないのだ。そして、現実にそのように見えていることを否定しているわけでもない。まったく常識的に考えればややこしいところだが、つまり、生じるか生じないかと問うて「不生」と言っているのではなく、これは、「空相」というヴィジョンを介すれば、諸法にかんして「生じる」「滅する」云々と述語化することはできない、どのような述語化も無用であり、無意味である、ということなのである。
宮坂宥洪『般若心経の新世界―インド仏教実践論の基調』、人文書院、1994年pp.137-138
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」というのは、これすべて空性体験における諸法は述語化できないということを表す諸例に過ぎない。したがって、これを文字通りに受け取って、一生懸命「増えないこと、減らないこと」を宇宙全体のエネルギーが一定であることと解説することには、ぜんぜん意味がないのだ。