宮坂宥勝監修『空海コレクション』1・2
「車でお遍路」計画の下準備として、理論武装のために(笑)購入。
実は、「密教」は今まで避けていた分野。しかし、フリッチョフ・シュオンのおかげで、再び仏教全般への目を開かされてしまった。「六塵(色・声・香・味・触・法)がことごとく文字であり、声字はそのまま実相である」などという思想、かつては違和感いっぱいだったが、今ではすんなり入る。
中国およびわが国で一宗を創唱した宗祖たちは、いずれも「教相判釈」を行っている。
要するに釈尊が生涯に亘って説いた教え――経典論書――を整理して宗祖が釈尊の本真の教えとして確信したものを全仏教の中核に据えて位置づけた。
ところが空海の場合には他に類例のない教相判釈をした。第一には全仏教を顕密の二教に分類して密教の特色を明らかにした。これが『弁顕密二教論』である。
そして『秘密曼荼羅十住心論』ではあらゆる顕教も高次元の密教の立場からすればすべて密教であると見做されると説く。その姉妹編の『秘蔵宝鑰』では顕教と密教とは次元が異なるとして両者の非連続性を明らかにする。
この双璧の主著によって顕密は矛盾的自己同一の関係にあることが認められ、密教のもつアンビヴァレンスが明確に看取されよう。
『空海コレクション』1序文、ちくま学芸文庫、2004年、p.9、
宮坂宥勝によれば、「密教」という宗派があるのではなく、すべての宗派(敷衍すればすべての宗教)に、顕教的側面と密教的側面がある、と空海は言っていることになる。これまさに、フリッチョフ・シュオンおよびペレニアリストたちの説くところだ。顕教と密教の間に線が引かれながら、かつ顕教の中に密教が含まれるとするところも、シュオンが多々述べていることに通ずる。
すべての答えは「密教」にあり?
それにしても、香川県に住むに至った不思議な縁を感じる。四国は島全体が真言密教の修行場だ(ついでにいえば、お隣愛媛県には俳句の聖地松山がある)。この地の利を生かさない手はないだろう。
空海コレクション 1 (ちくま学芸文庫)
空海コレクション 2 (ちくま学芸文庫)