シュオン「人間の変容」より

 私たちがすでに述べたように、瞑想的祈りにはある次元があって、その内容は原理の絶対的現実であり、したがって、それと相補的なものとして、原理の顕れである、世界の非現実もしくはより小なる現実である。
 しかし、「ブラフマンこそ真なる現実、世界は見かけのもの」と知るだけでは十分ではない。「真の自己はブラフマンと異なるものではない」ということも知る必要がある。この第二の真理により、私たちは、本性の許す限り、究極的原理に、知的レベルだけでなく存在のレベルにおいて向かうことができることを知る。それは、私たちが客観的知を可能にする知性を有するのみでなく、原理において主観的一致を可能にする「大我」の意識をも有するという事実から来る。一方で、エゴは内的神性からは切り離されている。なぜなら、それは顕現であって原理ではないからだ。他方で、原理の自己顕現である限りにおいて、それは 原理にほかならない。ちょうど、鏡に写る太陽は太陽ではない、しかし、にもかかわらず、その反映が太陽の光である限り、太陽と異ならないのと同じように。
 この自覚によって、人間は、超越的にして内在的な神の前に常に立っている。私たちの観想的自覚と霊的運命の神秘を決定するのは神であって、私たちではない。神を統一的に知ることは、神自身が私たちにおいて神自身を知ることである、ということを私たちは知る。しかし、私たちは、神がこの神聖なる自己意識を、私たちにおいてどれくらいの範囲で実現するのかを知ることはできないし、それを知るかどうかは大した重要性を持たない。私たちは、私たちがそれであるところのものであり、すべては摂理のままにある。


"The Transfiguration of Man",Bloomington,Indiana,World Wisdom Books,1995,pp.99-100

The Transfiguration of Man