革命思想としての神秘主義

 神秘主義は一般に現実逃避と思われている。人里離れた場所で、静かに瞑想して過ごすというイメージだ。しかし、私ははやくから「神秘主義こそ真のリアリズム」という命題を信じていた。哲学史上では、イデアリズム(理想主義)とリアリズム(現実主義)は対立概念として扱われているが、上述の命題をあてはめて言えば、「イデアリズムこそリアリズム」という話になる。
 これは一見突飛ではなはだ馬鹿げた考え方に思えるが、そうでもない。私が深く畏敬する存在(宮台語だと「すごいやつ」)であるシモーヌ・ヴェイユを見よ。キリスト教否定神学に連なる神秘家にして、スペイン内戦の際に極左アナーキストとして人民戦線にコミットした。「神秘」と「革命」を、そのトータリティにおいて生き抜いた人物だ。なぜ、「神秘」と「革命」なのか? ヴェイユは、「魂の解放」を念じていたからだ。今日にも続く管理社会システムは、身体とともに精神をも奴隷化している。だから、ヴェイユにおいては、神秘主義を深めていけばいくほど、革命的行動家になってしまう。これは逆説ではない。
 日本では、戦前の革新右翼思想家らもこの範疇に入るが、もっとも象徴的な人物は宮沢賢治だろう。職業妄想家にして社会改革者。彼もまた「魂の解放」を志向していた。日本は、イスラーム神秘主義と同様、創造的イマジネーションに関して、西欧諸国に対してアドヴァンテージがある。単なるリアリズムからでもなく単なるイデアリズムからでもなく、イデアルなリアリズムに基づく社会変革を目指すなら、まずは神秘主義者になるべきなのだ。