知的神秘主義の世界への誘い――井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』★★★★★

kanedaitsuki2009-06-07

 タイトルは「イスラーム哲学の原像」ではあるが、実際には十三世紀に勃興しはじめた、イスラーム神秘主義哲学(イスファーン)、しかもイブン・アラビーという一人の思想家に焦点を当て、その思想の内でも「存在一性論」に特化して論じている。とはいえ、広大なイスラム神秘思想への入門としては、最適な一冊であろう。
 多分にもれずイスラーム思想史においても、いわゆる哲学と神秘主義は、まったく別の道をたどって発展してきたが、十二世紀から十三世紀にかけて統合されはじめる。その際に重要な役割を果たした二人の思想家が、スフラワルディー、もう一人が、イブン・アラビーである。
 イスラームに限らず、一般に神秘主義は、経験世界を超えるために、経験的自我を、その理性的側面を含めて排除して、真実在と一致した神的我に到達する。いうまでもなくそれは理性を超えた境地であるから、そこにとどまる限り、哲学と接触する何物もない。実際、それを表すにメタファーや詩的表現にとどめるのみのスーフィーイスラーム神秘家)も数多い。神秘主義が哲学化するためには、いわば、経験界並びに経験的自我の無化という上昇過程を経た上で、経験世界に戻り来る下降過程が必須となる。その時、かつて単なる感覚的に認知されたに過ぎない世界は、最高位の存在から見返された世界となる。すなわち、存在そのものの自己顕現となる。
 整理すると、経験世界はいったん方法的に(デカルトの方法的懐疑のように)無化されたのち、神的顕れそのものとして、その存在を再び肯定される。シャンカラの不二一元論においても、経験的世界は究極的実在であるブラフマンの顕現であるが、それはあくまで意識の自己分節によるものであって、根本的には幻想であり妄想であり、無である。しかし、イスラーム神秘主義、とりわけイブン・アラビー派にとっては、経験世界もまた存在の自己顕現である限りにおいて、幻想でもなく妄想でもなく、有である。これをして「存在一性論」と呼ぶ。
 これは、汎神論に陥ることなく、存在の連続的リアリティにおいて神と被造物の一致を認めることだと言ってもいいだろう。こうした、被造物のうちに神を見、神のうちに被造物を見ることのできる人を、イスラームでは「双眼の士」と言うそうだ。
 これに関連して、イブン・アラビーの言葉を引こう。

「いわゆる経験的世界こそ秘密である。永遠に隠れた何ものかである。反対に絶対的真実在は永遠にあらわなるものであって、決して隠れるということはない。普通の人はこの点で完全に間違っている。世界はあらわなるもの、絶対者は隠れたものと彼らは思いこんでいる」


(『イスラーム哲学の原像』、岩波新書、1980年、p.196)

 ほとんどハイデガーのような、しかも相当にひねった表現であるが、これほどの透徹した存在理解には、正直驚嘆を覚えざるをえない。存在論が実はダイナミックなものだと言うことを西洋世界に開示したのはハイデガーの手柄であるが、おそらくはイブン・アラビーの内に、さらにダイナミックな存在論が秘められている。私たちは幸いに井筒師を通してその鍵を手にしている。


イスラーム哲学の原像 (岩波新書 黄版 119)