『サイファ〜』余談

 昨日のレビューでは紙幅の都合で(笑)取り上げなかったが、宮台がローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の発言に触れている所がある。

 ローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世が、二〇〇〇年一月の聖地巡礼ならびに二千年紀を祝す三月のミサで、歴史上画期的な二つのことを言いましたよね。一つはキリスト教だけが真理を独占しているのではなく、ユダヤ教イスラム教もまた同様に真理を分有しているのだ、という主旨。まるで、立正佼成会の開祖・庭野日敬の教えみたいでしょう(笑)。あとで、詳しく言いますが、僕が君とこの本を著そうと思った直接のきっかけは、実はこの画期的な演説にあります。


サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル (ちくま文庫)』、p.152

 宮台はあるいは知らないのかも知れないが、ユダヤ教イスラム教、それどころか仏教やヒンドゥー教などの非モノテイスティックな宗教ですら真理を分有するというアイデアは、第二バチカン公会議(1962〜1965年)において(たとえば「教会憲章」で)明言されており、ヨハネ・パウロ二世はそれをパラフレーズしているに過ぎない。
 ところでこうした動きは、カトリック内ですら誤解を生んでいる。左のリベラリストらは、カトリックは独善的態度を改め「寛容」になったのだ、と自らの教義的アナーキーを正当化し、右の伝統原理主義者らは、教会が安易に他宗派・異教徒に「妥協」したゆえに、真理の保持という崇高な義務を放棄したと見なす。もちろん、両者ともまとはずれだ。というのは、教会外での真理の分有というアイデアは、過去の教義の中に潜在しているものであり、あらためて今日顕示されただけのことだからだ。いわば、真理の分有宣言は、カトリックの真理を低めるどころか、かえってカトリック教会の真理性をますます開き示している。
 宮台はこの点に敏感で、(第二の画期的な点である、教皇の歴史的誤りの承認にからめてであるが)、こうしたことを述べることができるのは、教皇に「キリスト教的な原則を徹底的に貫徹することによって、事実上、歴史的に存在したキリスト教徒の不完全性を克服できるという自信があったから」(p.153)だと適切に述べている。
 宮台はヨハネ・パウロ二世のスピーチを、既成宗教による超越論的なものの宗教的表象への転換とは逆向きの、宗教的表象から超越論的なものへの逆転換への契機ととらえているようだが、それはうがちすぎというものだろう。しかし、こうしたカトリック教会の動きは明らかに、カール・ラーナーの「無名のキリスト教徒」のアイデアを介して、フリッチョフ・シュオンの「諸宗教の超越的一致」というメタフィジカル・リアリティへと道を開いている。そういう意味では、第二バチカン公会議は、ベネディクト16世が常々言っている通り、いまだ途上にあり、絶えざる再解釈を必要としている。