勝手に覚醒しろ!――宮台真司 速水由紀子『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』★★

kanedaitsuki2009-06-05

 面白い本ではある。が、トンデモ本スレスレなのがどうしたもんか。
 家族、社会、自己(アイデンティティ)を超えた第四の帰属先、それを指し示すキイワードが「サイファ」。社会に回収されない「端的なもの」「世界の根源的非規定性」を指示している。おおざっぱに言ってしまえば、いくら社会を改良して生きやすいものにしたとしても、そこからこぼれ落ちる存在が出る。そういう存在をどうしたらいいのか、という問いに対する答えが「サイファ」。だから、速水は「サイファ教、覚醒教」を布教するのだと言う。が、いまのところ、「サイファ」が巷で流行っている感はまったくない(笑)。
 速水の暴走に引きずられる形で、宮台が「社会学」のフィールドを乗り越えた発言をしているのが面白いが、ここでも両者の差異(というかレベルの差)が浮き彫りになる。宮台が「サイファ」を「超越論的なもの」とパラフレーズした上で、それはあくまで「論理の徹底」において開示されるという態度を取るのに対し、速水は「サイファ」を学校で子供に教えるべきだなどと言う。おいおい、それってそもそも本性からして「教えられないもの」なんじゃないの? 例えば、デリダの悪戦苦闘は、言語の伝達の(可能性と表裏にある)不可能性をめぐっている。「サイファ」と言い、「超越論的なもの」と言っても、結局言語を通過してしか他者に伝えられない。ここから宮台は「表現を通じて表出を救済する以外に、政治的に有効な策はあり得ない」(p.154)と適確に言う。速水にはそういう繊細さがまったく見られず、あまりに楽観的だ。
 気になるのは、やたらと速水が「最先端物理学」を持ち出しており(というか、ほとんどその一点張り)、ニューエイジを髣髴とさせるところだ。なるほど速水は、宮台と口裏を合わせてニューエイジ思想を批判しているのだが、ニューエイジを批判するニューエイジャーなどごまんといる(笑)。ニューエイジ思想はもともと、既成宗教に駄目出しするところから出発している。だから、ニューエイジそのものが旧体制化すれば、それにまた駄目出しするのは自然の流れだ。結局の所、新しさという病に取りつかれているだけで、既成宗教に対して無知・無教養なため、ニューエイジ思想が実際は、既成宗教のつまみぐい、現代科学のつまみぐいで成り立ったキッチュだということに気づかない。
 で、その隠れニューエージャー速水由紀子の結論(自己満足)は、自分自身が「サイファ」だと気づくことに行き着く(おやおや・・)。となれば、「サイファ教」とは現代の本覚思想か? 現代物理学に散々言及した行き着き先は、かなりトホホな内容である。

速水 (・・・)もっと根源的な話をすれば、全宇宙で、地球に生命が生まれるような現象が起こりうる確率は、「奇跡」という言葉にふさわしいほど低い。そして様々な遺伝子の組み合わせの中から、私や宮台さんという人間の全ての特徴を持った生体を組み立てる可能性も、「奇跡」的な確率なんです。つまり人間ひとりがここに生きているという事実は、「奇跡中の奇跡」、というわけです。「自分がサイファである」と信じる動機付けは、それだけでも十分な気がしますが。


サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』、ちくま文庫、2006年、p.286

地球に生命が、それから人間が生まれる確率が「奇跡」的に低くても、そのこと自体は別に奇跡でも何でもない。「速水」なり「宮台」なり、個々の人間の全ての特徴を持った個体云々というのは、むしろ「このもの性」の問題であって、「奇跡」とはあまり関係ないと思うが。
 だいいち、かくも表面的な「奇跡」教説だけで十分なら、こんな本など出さずに、家に引きこもって勝手に「サイファ教」をやってくれ、と心底思う。


サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル (ちくま文庫)