語り口の問題

 これは本来「擁護」で扱うべきネタであろうが、こちらで取り上げる。

 何やらJ.マシア神父のマリアについての記事をめぐって巷がうるさいようである。
http://d.hatena.ne.jp/jmasia/?of=5
 私はマシア神父の立場や一般的主張を存じ上げないので、あくまでこの記事に限ったこととして言うと、「うまく書くもんだな」と思った。


 「主は聖霊によって人となり、乙女マリアから生まれた」
 マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です。
 たしかにこれだけ見ると、教会の立場に反しているように見える。しかし、この冒頭箇所においてもそれ以降においても、マシア神父は不可謬的信仰箇条である「処女懐胎」を明示的に否定してはいないのである。「誕生物語は史的事実ではない」という命題は、そのままでは「処女懐胎」の否定にはならない。また、マシア神父の記述の仕方を詳細に見る限り、誕生物語の史的事実性を全否定しているわけではないようにも受け取れる。

 マタイ福音書に現れているように、ヨセフはイエスの遺伝の親ではありませんが、マリアの結婚についての歴史的事実まで私たちが遡ることができません。さまざまな伝承が伝えられております。ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかと言われていますが、それは確かめられません。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。かえって、どこに神が現れるのかということをますますはっきりと伝えられるようになるのです。

 この段落の第一文は実に不可解で読みにくい。前半部ではマタイ福音書の記述を元に、「ヨセフはイエスの遺伝の親ではない」と述べ、史的事実を部分的に肯定している。しかし、後半部では「マリアの結婚についての歴史的事実」は分からないと史的事実に対する不可知論的立場を取っている。どちらが本音なのかは分からないが、もし、明確に歴史的事実を全否定したいのであれば、前半部は「ではないとされていますが」というような伝聞調でつながれていなければならない。したがって、ここからはマシア神父が誕生物語の史実性のすべてを否定した、とは結論できない。
 もっとも問題とされたのは第三文であるが、「確かめられません」と言っている通り、仮説として提示されているだけである。そしてその仮説のもとであっても、イエスの神性は否定されない、というのがマシア神父のここでの根本主張である。
 たしかに、仮説とはいえ、いちいち「性的虐待の被害者」などという例を使う必要はないとは言える。しかし、一般論として、「もしイエスの懐胎が通常の生殖行為を介していたとして」、と仮定するのは、神学的思考実験としてはありうる。というのは、そのような仮説を立てることで、イエスの誕生の神秘の、より深い理解につながるかも知れないからである。
 そういうわけで、この記事に関する限り、冒頭の二文がいささか飛ばし過ぎに感じられる以外、教義の明確な否定といえる箇所はないように思われる。しかし、私自身はこういう曖昧さを含む、教義の否定と取られかねない書き方を好まない、ということは付け加えておく。