永遠平和は可能か――太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』★★★★

kanedaitsuki2007-10-17

この世界において、次第次第に、効果のある非暴力をもって暴力にかえて行くように努力すること。


シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

私は今でも、もし必要ならば戦争は可であるという考えである。しかし、最近になって、ますます「永遠平和は可能か」という問いが頭から離れないでいる。この問いは、見かけよりももっと現実的なものではないか。もし「現実的」が、実現可能性とは別次元で成立しうるものを指すとしたら。
憲法九条について正直に言うと、明確な改憲論の立場であった時でさえも、そこには何か崇高なものがあると感じていたことは否めない。崇高なものは宗教的なものである。したがって、そうした理念は憲法にはなじまない。ゆえに、改憲すべきであると、考えていた。ここにあるのはいわば、私の政治的信条と宗教的信条の衝突である。しかし、この衝突は、果たして決定的な対立といえるのだろうか。
かような思考を繰り返すうちに、いわゆる「九条の精神」とやらをかかげる人々と「和解」できるのではないかという思いが次第に形になってきて、自然に手にとったのが、このベストセラーである。
一見、このタイトルは、「九条」あるいは「平和憲法」を金科玉条のごとくに崇め奉っているような印象を与えるかも知れないが、実際には違う。これは九条論であると同時に、日本論であり、広くいえば、文化論であり精神論である。学術的でないがゆえに、「九条」をめぐっての自由で刺激的な問題提起になりえている。
この本の美徳の一つは、「改憲」「護憲」という硬直した二項対立、とりわけ、「戦前」「戦後」という二項対立に対して懐疑的であることだ。冒頭では宮沢賢治の二面性、すなわち、絶対平和の希求者であると同時に満洲事変すら肯定してしまうようなウルトラ国家主義者であるという二面性をとりあげ、賢治の童話に表現されている平和への志向を信頼するとしつつ太田は言う。

太田 (・・・)しかし、賢治を肯定するには、もう一度戦前の日本を検証し直さないといけないんじゃないかと思う。つまり、戦後日本人がタブーとした戦前の思想。見たらそこに戻ってしまうのではないかという恐怖のあまり蓋をして未だに見ないようにしている部分、その蓋を恐怖に負けずに開ける作業。それをやらないと、憲法九条の問題の答えも出てこないと思います。
中沢 憲法の問題を考えるとき、宮沢賢治は最大のキーパーソンです。平和とそれがはらんでいる矛盾について、あれほど矛盾に満ちた場所に立って考え抜こうとしていた人はいませんからね。


憲法九条を世界遺産に』新潮新書、2006年、p26

私は宮沢賢治の詩とファシストを結びつけた伊坂幸太郎の小説『魔王』を思い起こした。もちろん、戦争の危機の中に立ち、自ら戦争に参加しつつ、なお平和の可能性を探り続けたシモーヌ・ヴェイユのことも。
ここで太田は、憲法九条をもって、戦後日本を絶対化するような愚を避けている。もう少しいえば、憲法九条を肯定するために、戦前の日本も肯定しなければならないとすら、考えている。太田は実際、「過去に起きた戦争を一回肯定してみる必要があるんじゃないか」(p45)と言っているのだ。これは、一般の九条信奉者にはまったく見られない、「戦後」と「戦前」という二項対立を乗り越えようとする姿勢である。
太田はいわゆる「押しつけ憲法」に対しては、日本国憲法は「ちょっとやそっとでは起こりえない偶然が重なって生まれた」「突然変異」(p55)だと言う。

太田 (・・・)戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのは、あの瞬間しかなかったんじゃないか。日本人の、十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これはもう誰が作ったという次元を超えたものだし、国の境すら超越した合作だし、奇蹟的な成立の仕方だなと感じたんです。
(・・・)
中沢さんがおっしゃたように、戦後、この憲法については、変だぞ、普通じゃないぞと言われることが多い。でも、あの奇蹟的な瞬間を、僕ら人類の歴史が通りすぎてきたのだとすれば、大事にしなければいけないんじゃないかと思う。エジプトのピラミッドも、人類の英知を超えた建築物であるがゆえに、世界遺産に指定されているわけですね。日本国憲法、とくに九条は、まさにそういう存在だと思います。


同上、p56

ここでの太田の口ぶりはいささか理想主義的にすぎるように見えるかも知れない。憲法成立の歴史認識にも難があると思われる。しかし、憲法あるいは条文を奇蹟として成立したものとして見ることには、単なる人間的な理想主義を超えたところがある。そこには人知を超えたものへの畏敬が見られるのだ。私が「崇高なもの」と呼んだものも、この発言に重なる。
いわゆる保守主義憲法観からすれば、憲法は自生的なものあり、単なる人工物ではない。たしかに社会的構築物ではあるのだが、個々の人間の理性による計画性にはおさまりきらない祖先の叡智が含まれていると見なす。「憲法九条」に対する畏敬の念は、そうした非合理な叡智に対する感情と、そんなに遠いものではない。これは、「憲法九条」の起源は、巷間思われているよりも、はるかに古いものではないのかという思考へと私たちをうながす
「押しつけ憲法」か否かといういささかテクニカルな問題を乗り越えるためには、いわば憲法の条文を単なる文章としてではなく、そのように表現されるに至った、秘められた人類の想いを深く読み取る必要があるのだ。中沢新一は大胆にも(これは彼の長所でもあり短所でもある)、「平和憲法をつくりだしたアメリカ人の発想の中には、アメリカ先住民の考え方が色濃く影を落としているようなのです」(p66)とさえ言う。つまり、アメリカ建国精神の中に、先住民の平和思想が流れ込んでいるのだと。事の真偽については懐疑的にならざるをえないのだが、日本国憲法の「近代性」を相対化してみるためには、こうした大胆な仮説も有益なのではないかと思う。
憲法を「奇蹟」とすることの含蓄には別の面もある。「九条」あるいは「平和憲法」に対してよくある「こんな憲法は世界に類例がない」「日本も普通の国にならねば」という右サイドからの批判の逆用である。「変」であり「普通じゃない」からこそ、「世界遺産」として保護する価値がある。これは芸人らしいユーモラスな理屈である。太田はすすんで、「お笑いの判断基準でいえば、憲法九条を持っている日本のほうが絶対面白いと思う」(p73)と述べる。憲法をお笑いの基準で見るなよ、と顰蹙するひともいるかも知れない。しかし、ここで終わらないのが太田の凄みではある。

太田 (・・・)無茶な憲法だといわれるけど、無茶なところへ進んでいくほうが、面白いんです。そんな世界は成立しない、現実的じゃないといわれようと、あきらめずに無茶に挑戦していくほうが、生きてて面白いじゃんって思う。
憲法九条というのは、ある意味、人間の限界を超える挑戦でしょう。たぶん、人間の限界は、九条の下にあるのかもしれない。それでも挑戦していく意味はあるんじゃないか。いまこの時点では絵空ごとかもしれないけれど、世界中が、この平和憲法を持てば、一歩進んだ人間になる可能性もある。それなら、この憲法を持って生きていくのは、なかなかいいもんだと思うんです。


同上、p74

かつての私は、こうした発言に隠された宗教性を感じて嫌悪感を持ったものだ。しかし今は、宗教性があるがゆえに、より現実的でありうることがあると知っている。
「九条の下」という言い方に注目したい。九条の理想は、いわば実現不可能なものである。しかし、実現不可能であるものは、それだけでただちに価値のないものとは言えない。私たちは九条が表現しようとしている「永遠平和」に到達できないかも知れない。しかし、到達できないものであっても、目標ではありうる。少なくとも「九条の下」まではいけるのではないか。つまり、「永遠平和」に達することはできないとしても、そこに無限に向かっていくことは可能なのではないか
「九条」を掲げることの危険性は、むしろ、それが容易に実現可能であると思ってしまうことであろう。「永遠平和」は不可能であるがゆえにこそ現実的である。つかんだと思った平和は「まがいもの」の平和なのではないか(戦後日本の「平和」・・)。

わたしたちは、知り、望み、愛する存在である。そして、自分が知ったり、望んだり、愛したりする対象に注意を向けてみるとすぐに、不可能でないものはないということが、はっきりとわかる。この明白な事実におおいをかけることができるのは、虚偽だけである。このような不可能をいったん察知すると、わたしたちは、自分がねがい求め、知り、望むすべての事情をとおして、とらえがたいものをとらえようとたえずねがわずにはいられなくなる。


シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

太田の言う「人間の限界を超える無茶な挑戦」とは、不可能なものに向かって、「とらえがたいものをとらえようとたえずねがう」態度に通じているという意味で、深く宗教的なものである。中沢はそれを踏まえて、彼らしいレトリックで「憲法九条は修道院みたいなもの」(p75)、また「日本国憲法というのは、日本人のドリームタイム」(p78)とも述べる。

中沢 (・・・)ドリームタイムというのは、オーストラリアのアボリジニが、自分たちの根源の場所として確保している場所のことです。そこへはめったなことではたどり着けないし、現実には踏み込めないことだってある。その場所には、恐ろしい虹の蛇が棲んでいるともいわれるんですが、そういう場所があることを知って、そこに心を向けることで、世界は正しい方向に向かっていける。
現実には、そんなものは存在しない。かつても存在しなかったろうし、これから先も存在しない。しかし、そういうものについて考えたり、それをことばにしたり、地上にそういうものが宿ることのできる場所をつくっておくことは、人間という生き物の生き方にとっては、とても重大なことです。それを人類は捨ててきました。ところが、日本国憲法はことばでできた日本人のドリームタイムなんですね。このことばでできたドリームタイムによって、日本人は今まで精神の方向づけを行ってこられたんです。


憲法九条を世界遺産に』、p78

こうした理念を聞かされると、なるほどこれは「崇高」ではあるが、現実的には「空疎」であると、辟易される方もいるであろう。それを察してか中沢はすぐさま「日本国憲法の文言をそのまま守っていると、現実の国際政治はとてもやっていけないよ、ということはほんとうです」(p79)と如才なく付け加えている。しかし、それでもなお、この「ことばにされた理想」は「大きな精神の拠り所」であり、簡単に捨ててよい、とは言えないとする。
憲法九条をめぐっては、様々に形を変えて「現実主義」と「理想主義」の対立軸で語られるのが普通だ。現実主義は、九条を単なる理想、夢物語であり、非現実的であると批判する。理想主義は、九条をいわば未来への契約と見なし、実現を目指していくための目標であり、決して夢物語ではないと反論するだろう。
太田・中沢の立場は、理想主義と呼ばれてしかるべきであるが、しかし、現実主義からの批判に対して、九条は「夢物語」ではないという反論をするのではなく、むしろ「夢物語」だからこそ維持すべきであるとする点で、巷間ありがちな理想主義とは一線を画している。太田はドン・キホーテの理想主義的行動が、その話の終わりで「正気に返る」こと(夢オチ)への不満を述べつつ、以下のように語っている。

太田 俺たち読者が今まで長い間楽しんできた物語を、そんな終わらせ方するなんて、ひどいじゃないかと、突き放されたような感じがしたんです。憲法九条の改正問題にも、これと似たような感覚があるんです。九条を改正したら、日本は正気に返ったドン・キホーテになっちゃうんじゃないか。最後の場面で落胆したように、この世界がいきなりつまらないものになってしまう気がするんですね。
憲法九条を持ち続けている日本というのは、ドン・キホーテのように滑稽で、しっちゃかめっちゃかに見えるかもしれないけれど、やっぱり面白い。正気を失っているときのほうが元気だし、エネルギーがあるし、絶対面白い世界だと思います。


同上、p81

改憲論は、日本を「普通の国」にする、日本人を「正気」に戻すというのが決まり文句みたいなものだが、ここでも太田はトリッキーなロジックを使い、そうした主張の虚をついている。「正気を失っているときのほうが」いいのではないか? これは軽率な発言にも見える。というのも、むしろこの表現は、戦前日本が戦争に突入した時の日本人のうかれた気分に合致しているように思えるからだ。
太田はそのことに気づいている。というよりも、この『憲法九条を世界遺産に』という本を貫いている重層低音は、まさしくこの「戦前日本」と「戦後日本」の連続性の意識にあるといっても過言ではないのだ。太田は、日本を象徴する桜の狂気に触れつつ、対談外で以下のような心情を吐露している。

九条を守る。特別な国であり続ける。という思考をする時に、私の中に確かに”恍惚”がある。この恍惚は、『日本国憲法』という理想論を、焼け野原で日米が合作するという特別な時に、その製作に携わった人々の感じた恍惚ではないだろうか。また、九条という無邪気で完全な平和に、飛びついていった時の日本人の恍惚ではないだろうか。同時にこの恍惚は、世界を一つの家族にするというアイデアを着想した時の田中智学の恍惚であり、智学の思想に触れた時の宮沢賢治の恍惚であり、また、戦争突入を決断した時の日本の恍惚であり、故に戦いの恍惚であり、桜を見つめる時の恍惚ではないか。それは直感であり、恐怖感であり、そして突き詰めれば”冒険心”である。
この冒険を続けたいと思う。それは、桜の国であり続けるということだ。しかしその道は、戦前の日本が歩んだ道と同じかもしれない。そのことを宮沢賢治からしっかりと学んでおきたいと思う。


同上、p97

この文章は、太田の文学性を遺憾なく発揮した美しい詩になりえている。三島由紀夫はかつて、皮肉を込めて「一億総玉砕」も「一億総懺悔」も同じ日本人の精神性であると喝破したことがある。まったく別の立場から、太田も同じことを述べている。
このように、改憲派護憲派も、自らの思考を再検討する触媒として、この書はたしかに強力な毒になりえている。他にも日本国憲法天皇制の親和性について語っているところ(p134)など、言及したい箇所は多々あるが、いささか私も恍惚にあてられたようなので、ここで筆を置くことにする。

憲法九条を世界遺産に (集英社新書)