まずはこれを読め、話はそれからだ――林晋/八杉満利子訳『ゲーデル 不完全性定理』★★★★

kanedaitsuki2007-05-23

あまたある不完全性定理についての不完全な入門書は即刻ゴミ箱へ! ゲーデルの原論文に加え、専門研究者である林晋による目の覚めるような詳細な解説がついて、しかも文庫で真打登場。
不完全性定理はおおくのひとが理解しているようなものではない。とくに「不完全性」の意味について。つまるところ、当時の数学史的状況を把握していないと、この定理の意味も意義もまったく理解できない。そのような前提のもと、解説のほとんどは、数学の形式化を挙行しようとしたヒルベルトを再評価しつつ、当時の数学認識論的布置を再構築することに費やしている。それによって見えてくることは、不完全性定理が形式化を破壊したという側面よりも、むしろあるレベルにおいて形式化を完成したという面である。この定理の出現によって、明らかに(特に集合論の分野での)公理化の流れは加速した。

人文系によく見られる不完全性定理の利用の仕方は、数学のような最も厳密で確実と思われた学問すら「不完全」なのだから、ましてや他の学問云々・・というものだろう。こうした風潮を見越してか、林は以下のように記述している。

不完全性定理をめぐる歴史解説の最後に、比較的最近の数学基礎論的展開について触れておきたい。最近の展開を知っておくことは、いわゆるポストモダン系の議論に多い、ゲーデルの定理を「根拠」とする素朴な相対主義的・限界論的結論の解毒剤としても有効である。


上掲書、p265

以下、ゲーデル以降の数理論理学の分野における発展に触れ、ヒルベルトの企図した数学の形式化についてだけであっても、部分的には成功していることを明らかにしている。そして、そもそも不完全性定理の出現は、大部分の数学者にとっては「辺境」的な出来事に過ぎない。

実は、多くの場合、数学のある部分が不完全性定理的な現象に感染していることが判ると「それは真の数学でない」とされて、「数学の本体」から切り離されてしまう。そういう摘出手術を痛痒に感じないほど、数学は豊かなのである。
(・・・)
不完全性定理を真剣に受け止める数学者は極めて少ない。多くの数学者は、それを単なる周辺的な定理と理解している。
(・・・)
数学基礎論に残された大きな問題は、数学の不完全性を声高に叫ぶことではなく、「ゲーデル不完全性定理にもかかわらず、なぜ現実の数学はこうも完全なのか」という逆説的な経験的事実への問いかけであるように思えてならない。


同上、pp274-275

ポストモダン感染者なら、こうした見解を哲学的問題に対する鈍感と決めつけるのではないかと思う。しかし逆に、ある見解を一つの単なる解釈(そうでないものなどあろうか?)にしか過ぎないと見なして切り捨てる、そうした態度こそがポストモダンの不毛を生み出しているのではないだろうか。

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