典礼問題

ついでなのでCWNから、典礼秘跡省高官Malcom Ranjith大司教のインタビュー記事(2007/02/23)を紹介する。
http://www.cwnews.com/news/viewstory.cfm?recnum=49460

公会議後の典礼改革は、当初期待されていたような霊的で宣教的な刷新の目的を達成できていない
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疑いなく、肯定的な結果もある。しかし、否定的な結果はより大きなもので、上部層においてもおおくの方向感覚の喪失を引き起こしているように見える。
教会は空虚になった。典礼上の自由奔放が流行となり、儀式の真の意味と真の意義はおおい隠されてしまった。

典礼改革の中に、明らかな失敗があったことを認めている。

問題なのはトリエントミサなのか新ミサなのかということではなく、ただ司牧上の責任と感覚の問題である。
それゆえ、もしもトリエントミサが信徒のための霊的な豊かさをよりよいレベルで達成する方法であるならば、牧者はそれを許すべきだ
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つまるところ、教皇ヨハネ・パウロ2世は「エクレジア・デイ」(1988)において、トリエントミサを挙行し参加する人々に対して、この問題において敬意をもって扱うよう司教たちに呼びかけている。そのうえ、トリエントミサはルフェーブル大司教の追随者のみに属するものではないということを思い起こそう。それは、カトリック教会の成員である我々自身の財産なのだ。

おずおずとだが、トリエントミサというオプションがあることを知らせている。

典礼において)時折多くの形骸化と陳腐化が見られる。我々は礼拝における聖なるもの、神秘なるものの真の感覚を取り戻す必要がある
もし信徒がトリエントミサには聖なるものと神秘なるものの感覚を与えてくれるのだと感じるのならば、そのとき私たちは彼らの要望を受け入れる勇気を持つべきだ。
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これらに反する態度は、教会の霊的使命を傷つけ、主御自身の意志に反抗することになるだけである。

これはトリエントミサ自由化の動きに呼応した言説だろう。多くの抵抗があるだろうことが予想される。

教会の典礼のすべての要素は、それ自身長い発展と意味の歴史を有する。それが個人的な「諸伝統」の問題ではないのは確実である。典礼は何だかんだと操作できるような対象ではない
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たとえば、聖餐の神秘はしばしば誤解されるか部分的にのみ理解されている。その結果、あらゆる種類の乱用が典礼に対してなされてしまう。聖餐式において、司祭に主要な役割が当てられている。しかし、祭壇で生じることの主要な動因は司祭ではない。イエス御自身である。

典礼は人間による造り物ではない。伝統ある典礼がなぜ重要なのかを示唆している。

第二バチカンは決して典礼の直接的な変化を擁護していない。それはむしろ、既に存在している形式から組織的な形で成長する変化を提案している(典礼憲章23)。
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アントネッリ枢機卿の日記に記されていることだが、公会議後の典礼上の変化は、十分な熟考なしに、でたらめに導入され、のちになって認可された
例えば、手による聖体拝領は、聖座によって認可される以前に、適切に研究・熟考されたものではなかった。北欧のいくつかの国で、でたらめに導入され、のちになって認可され、ついには多くの他の国にまで広がってしまった。それは避けられるべきだった。第二バチカン公会議は、典礼改革に対するそのようなアプローチを決して擁護しなかった。

この問題に関心のある人には既に周知の事実だが、はじめて耳にする方も多いかと思う。重要なポイントである。

(正されるべきものとして)私の見るところ、いくつかの国で、主日のミサの代わりにエキュメニカルな礼拝をするという流行がある。そこでカトリックの信徒とプロテスタントの牧師らが共同で儀式をし、後者が説教する。司教が臨席できない場合にのみ許される形態である、聖体拝領にともなう主日の聖書の典礼が、もしエキュメニカルな催しに成っていくならば、それは信徒への間違ったシグナルとなる。彼らは聖餐なしの主日という観念に慣れ親しむことになるかも知れない。
聖餐は教会をつくりあげるものであり、私たちカトリックにとって中心的なものである。もしそれが、聖書の典礼に、なお悪いことにはエキュメニカルな祈りの礼拝によって、取って代えられてしまうならば、まさにカトリックのアイデンティテイにかかわる問題になるだろう。不幸なことに私が聞くところによると、聖餐自体がプロテスタントの牧師たちに従った様々な外観の下にとりおこなわれていることもあるようだ。これは全面的に受け入れられないものであり、「大いなる攻撃」となる。
エキュメニズムは司祭個人の恣意的な選択にまかせられているものではない。第二バチカンによって支持されるような真のエキュメニズムは、教会の心からのものである。
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エキュメニズムの名による典礼的発明は個人的な試みであるべきではない

聖座は(特にヨハネ・パウロ2世教皇在位中)エキュメニズムを推進してきたので、頭の痛いところではあろう。しかし、カトリックの「カトリック性」を失わせるようなエキュメニズムは拒否されるべきであるという姿勢だ。

第二のひどい流行は、司祭によって挙行されるミサが、平信徒によって施行される典礼まがいのものにとって代えられていることだ。もちろんこれは、主日の義務を満たすための司祭が不足している場合は合法的でありうる。しかし、これは例外であって、きまりというわけではない。危険なのは、司祭が十分いる場合でさえ彼が隅に追いやられ、幾人かの平信徒の司牧的組織が、司祭が成すべき仕事を勝手にわがものとしていることだ。この流行においては、平信徒のリーダーが司祭がいる場合でさえ彼の代わりに説教をし、あるいは聖体を拝領する。司祭は祭壇に座って暇をもてあましている。
ここで強調せねばならないことがある。第二バチカン公会議が断言しているように、信徒の共同司祭職と司祭の司祭職とは「本質において異なるのであり、程度においてのみ異なるのではない」(教会憲章10)。それだから、司祭が成すべき聖なる義務を平信徒に引き渡すことはとんでもない濫用である。
不幸なことに、世界的に増大している流行がある。聖職者の平信徒化と平信徒の聖職化である。これもまた公会議の意向に反している

そう述べてはいないが、これはカトリック典礼プロテスタント(万人司祭)化の問題といえる。

これらすべての現象は教会にとってよい予兆とはいえないし、これらの流行は正される必要がある。アンチオキアの聖イグナチオが断言するように、私たちが挙行する聖餐が「不道徳の治療薬であり死に対する解毒剤」(エフェソ20)となるべきならば。

解説は不要だろう。「薬」という以上、「エキュメニズムを病にたとえ」てはいないものの、あるただされるべき流行を「病」だと暗示していることがわかる。つまり、「病にたとえること」はよくある普通の比喩なのだ。
雑誌のインタビュー記事であり公式発言ではないが、ここから聖伝ミサの自由化の流れがほの見えるのは確かなようである。